かのこん 4 〜オトメたちのヒミツ〜 西野かつみ まえおき 年の始めの例《ためし》とて、終わりなき世のめでたさを 「ああ……」  立ちのぼる湯けむりに、耕太《こうた》はそっと吐息を溶けこませた。  いま耕太が肩までつかっている湯船には、お湯がなみなみになるまで張ってあった。そのため、息をはく、そんなわずかな動きであっても、湯面はきらきらとゆらめき、ふたりで入ってもまだまだ余裕があるほど大きな浴槽から、お湯をあふれさせる。  ちゃぱぱん、とタイル地の床にこぼれ落ちた。 「なあに、耕太くんったら……そのため息は」  そう、これはため息だ。  決して、熱いお風呂《ふろ》に入ったときに自然にこぼれる、心地よさからの『あぁああ……』ではない。そもそもこのお湯はぬるめだったし——さっきの吐息は、こまってしまって弱ってしまってわんわんわわんなときにもれる、『あああああ』だった。 「むー……」  ため息の原因を作りだしていた彼女が、耕太の背後で不服そうな声をあげる。 「こんなにかわいい女の子といっしょに、お風呂に入っているというのに……なにを思い悩むことがあるのかなあ、耕太くんは」 「こんなにかわいい女の子といっしょだから、悩ましいんじゃないですか」  耕太は、いま後ろで、その大きくもやわらかいふたつのふくらみを、自分の背中に押しあてている——いや、自分の背中でまいまいーんと押しつぶしている女性を、横目で見た。  タオルを頭に巻いた彼女が、やだぁ、と手を頬《ほお》に当てる。 「かわいい女の子だなんて……耕太くん、本当に正直者なんだから。えい、えいっ」  恥じらったしぐさではあったが、湯船のなかでは、ぐいんぐいんと耕太にさらに胸を押しあてていた。お湯が波うち、じゃばじゃばと浴槽からこぼれだす。  いま、自分からかわいい女の子だっていったのにな……。  ついつい耕太は、眼《め》と口をまっすぐに引きのばした、微妙な表情になってしまう。  でもまあ……しかたないか。  だって彼女は、ちずるさんは、たしかに美人で、かわいいのだから。  耕太と一緒にお風呂《ふろ》に入っているかわいい女の子、源《みなもと》ちずるは、いつもは腰までおろしている豊かな髪を、いまは頭に巻いたタオルでまとめていた。そのために、彼女のほそやかな首筋や、なだらかな肩のライン、くっぽりとした鎖骨のくぼみが、湯気のなか、うっすらと赤らんだ肌身をさらしている。  耕太は視線を外した。  かわいいというのは……やっぱり失礼なのかもしれない。  自分の頬が熱くなるのを感じながら、耕太はそう思い直した。それは、このあふれんばかりの色香が、かわいいという言葉にはじつにそぐわないということもあるし——なにより彼女は、耕太にとって年上の恋人なのだからだ。  実際の年齢差はさておいて、学年上、ちずるは耕太のひとつ先輩だった。耕太とちずるはおなじ学校に通っていて、耕太は一年生、ちずるは二年生。  ただし——およそ三ヶ月後には、どちらもひとつ上の学年へと進級する。  今日は一月一日。  元日、あけましておめでとうの日であった。  そんな、本来ならば身体を清めるべきな新年ほやほやの朝、耕太は逆に身体を汚すような真似《まね》をしていた。耕太が住む学生寮の、その共同浴場にて、ちずるとふたりで入浴なんかしちゃっていた。いくら、いつものようにちずるに押しきられたとはいえ。 「ああ……」  耕太はまたため息をついた。 「ぼく、新年早々、こんな乱れたことしちゃって……」  一年の計は元旦《がんたん》にありという。今年がどんな年になるのか、新年早々、耕太にはわかってしまったような気がした。 「あら、耕太くん、そんなこと気にしてたの? だったら大丈夫よ、わたしたち、なーんにも乱れたことなんか、してないんだから」 「え?」  振りむいた耕太の耳元に、ちずるが唇をよせてきた。必然的に、その愛情いっぱい夢いっぱい、大きさもいっぱいな胸が、耕太の背でむにゅにゅとつぶれる。 「だって、わたしたちはもう……ふ、う、ふ、でしょう?」  ふ、う、ふ——夫婦。  夫婦、夫婦、夫婦……。  ちずるの甘いささやきが、耕太の頭のなかでこだました。  どくん、と耕太の鼓動は跳ね、ついでに身体も跳ねた。お湯を跳ね散らしながら、わたわたと振り返る。湯船に膝立《ひざだ》ちになって、ちずるに向き直った。 「ま、待ってください、ちずるさん。ぼくたちまだ、夫婦なんかじゃ——」 「あー、熱い熱い」  いきなりちずるが身を起こした。  顔を両手であおぎながら、えいしょっと膝立ちになる。そのために、ちずるの偉大すぎるふたつのふくらみが、もろにあらわになってしまっていた。  だゆよえーん。  うわあ。  耕太は手のひらを自分の顔の前に広げて、縦揺れするちずるの胸をさえぎった。 「だ、だだ、ダメですぅ、ちずるさぁん!」 「……どうしたの、耕太くん」  ちずるは膝立ちしたまま、きょとんとしていた。  顔をあおいでいた両手を、さきほど震度六クラスの縦揺れを見せた胸部へともってゆく。下からすくいあげた。  ふくらみが持ちあげられる——黄色い布地に包まれたふくらみが。 「水着だよー、これ」 「……そ、そう……でした」  耕太の身体から、がくりと力がぬける。  ちずるは黄色いビキニ姿だった。  水着着用こそが、今回の混浴を認めた理由だったのに……一瞬、耕太は忘れてしまっていた。湯船につかっているときだって、水着の肩ひもは見えていたはずなのに、まったく覚えていなかった。黄色って意外とめだたないものらしい。  いや、違うよ——。  鮮やかな黄色い果実を前に、耕太はうなだれる。  水着のことを忘れてしまっていたのは、ちずるの夫婦宣言に動揺していたからだ。でもそれだけじゃない。  ちずるの水着姿を、まともに見ていることができなかったからだ。  すっごくどきどきしてしまうのだ。いままで水着姿どころか、一糸まとわぬばいーんな姿、下着姿、ワイシャツ一枚だけ姿など、露出度でははるかに上な格好を、耕太はなんどもまのあたりにしてきた。  なのに……それよりも、いまの水着姿のほうが、胸に迫るものがある。  なぜだろうか。本来ならば裸になるべき浴室で、逆に肌を覆《おお》っているからだろうか。普段のちずるが普段だけに、こういう普通の格好が新鮮だからだろうか。ただ単に自分がマニアックになっているだけではないか、という可能性は、いまは考えないことにした。  ふう、とちずるが息をはく。  うっすらと汗の浮いた顔を、まだ手であおいでいた。膝立《ひざだ》ちの状態から立ちあがる。ざばりと、ひらひらしたフリルで飾られた腰が、湯をしたたらせながらあらわれた。 「ちょっとのぼせちゃった……ね、耕太くん。あがろ?」  微笑《ほほえ》みながら浴槽をまたぐ。  伸びやかな手足となめらかな背に、お湯をたらたらとすべらせながら、シャワーと鏡がついた壁へと歩いていった。タイル張りの壁には、シャワー、鏡、水とお湯の蛇口がセットになった洗い場の台が、みっつ、横ならびになっている。  ごきゅり、と耕太は生つばを飲んだ。  ちずるの後ろ姿といったら、濡《ぬ》れた水着がぴたりと張りついているせいで、とくにその、大きなお尻《しり》が、かたちをくっきりはっきりむっちりとさせていた。大きいといっても垂れてはおらず、きゅっと持ちあがって、ぷりんぷりんで、じつに——。  じつに、なに!?  うう、と耕太はお湯のなかに口元まで沈みこませる。ぶくぶく。  かつてあの桃のようなお尻《しり》を、自分がぺんぺんしたことを思いだしてしまっていた。まったくもって、とんだ桃太郎侍……。ぶくぶくぶく。  ああ、なんだかぼく、すっごくえっちになってしまったような!? 「耕太くーん? ほら、背中の、洗いっこしよ?」 「は、はい!」  ちずるがぬけたせいですこしかさの減ったお湯をぶくぶくぶくぶくさせていた耕太は、あわてて立ちあがる。  立ちあがって——すぐにへっぴり腰になった。  よんどころない事情によって、トランクス型の水着をはいた腰を引く。いまさらまた湯船のなかに戻ることもできず、耕太はよたよたとちずるの元に向かった。  救いなのは、ちずるがタオルを泡だてることに夢中で、耕太のほうを見ていないことだ。 「はい、耕太くん、座って」  プラスチック製の椅子《いす》を示されて、これ幸いとばかりに耕太は腰をおろした。  うふふ……と笑うちずる。  さっそく背中がこすられた。しゃこしゃこしゃこ……強めの感触が、肌にとても心地よい。シャボンの香りに、耕太はうっとりと眼《め》をつぶった。 「……なんだか耕太くん、前より大きくなったみたい」 「え? ほ、本当ですか?」 「うん。前より背中が広くなった。やっぱり男の子なんだね……そのうち、わたしの背も追いこしちゃうのかな」  えへへ……こみあげてくる笑みを唇で噛《か》み噛《か》みしながら、耕太はうつむいた。  耕太の身長は一六五センチ。ちずるの身長は一七二センチ。七センチの身長差を、耕太はひそかに気にしていた。もちろんちずるはなにもいわない。むしろ体格差をいかして自由に耕太を押し倒せるぶん、喜んでいるそぶりもあるが……やっぱり耕太は男なのだ。  こんど、身長を測ってみよう……耕太はうんうんとうなずく。 「わたしもね、ちょっぴり大きくなったんだ」 「えええ? まさか、身長がですか!?」  思わずヘンな声をあげてしまった耕太に、ちずるはうふふ……と小さく笑った。 「残念、はずれ。……ね、どこが大きくなったか、わかる?」 「うーん……」  まさかおなかじゃないよね、と耕太は頭をひねる。  うふふのふ。低くささやくような笑い声をもらしながら、ちずるは耕太の背に、なんだかあたり覚えのあるやわらか〜なものを押しあててきた。 「こ、れ、だ、よ」  うにゅ……ん、とつぶれた。 「……こ、れ?」 「そう。おっぱい」  おっぱ……耕太は口をあんぐりとさせる。 「これだけじゃないんだよ? お尻《しり》も大きくなっちゃった……ほら、耕太くんが〈|ちちまくら《あまえんぼさん》〉とか、〈お尻ぺんぺん〉とか、そうそう、〈おっぱいちゅうちゅう〉なんかしちゃうから、わたしの身体、前よりもっともっとえっちになっちゃった。ぜーんぶ、耕太くんのせい……ほら、前よりも……どう?」  にゅるるるん。 「おほおおお!?」  なんと、やわらかみが耕太の背中を滑っていた。  背を丸めた耕太に、なおも乳房の上下運動は襲いかかる。にゅらろんにゅらろん。 「ち、ちず、ちずるさんー! なに、なに、なにを」 「んー? ほら、こうすれば、耕太くんのお背中とわたしのおっぱい、どちらも洗えて、あは、一石二鳥でしょ? よいしょ、よいしょ……いいアイディアじゃない?」  にゅらろんにゅらろん、にゅらろんろん。 「だ、だめです、ちずるさん、そんな、あひ、うひ」 「あ、そうだ」  びくびく震える耕太の背から、ようやくおっぱいスポンジの嵐《あらし》は去った。  耕太は丸まり、はあはあと息を荒げる。ち、ちずるさぁん……と振りむいて、うぎ、と固まった。  ちずるのなだらかな肩から、黄色い肩ひもが外れかけている。  違う。ちずるが自分で、水着を外している! 「ちずるさん!」 「だって、このままじゃ水着のなかが洗えないでしょ? 耕太くんはいいの? わたしが、汚い、くちゃーいままで」 「ちずるさんは、汚くないし、くさくありませんよ! とってもきれいです!」  だって昨日も、大晦日《おおみそか》もちゃんとお風呂《ふろ》に入っていたのだから。  いや、そういうことを抜きにしても、耕太にはちずるが汚いとは思えなかった。たとえお風呂に入っていなかったとしても、実際に汚れていたのだとしても——。 「ぼく……ちずるさんだったら、汚くても、べつに平気ですし」  ちずるが眼《め》を丸くした。  水着の肩ひもを完全に外し、胸元を覆《おお》う黄色い布をゆるませたまま、その動きを止める。  は、と耕太は気づいた。  自分がかなりヘンタイさんな宣言をしてしまったことに。 「あ……ち、違うんです。ぼくがいいたかったのは、あの」 「耕太くん!」  ちずるが飛びこんできた。 「わたしも、耕太くんなら、なんだって平気! 汚れていたって、くさくたって、ぜんぜん気にしない! だって愛してるもん。だってここには愛があるんだもん!」  ぎゅっと抱きついてくる。 「え……ぼく、もしかして、くさかったり……します?」  ううん、ちっとも、と耕太の首筋に顔を埋《うず》めてきた。 「かすかに男の子の匂《にお》い……本当に薄くて、もの足りないくらい。でも、うん、とってもどきどきするよ……」  匂いを嗅《か》がれた耕太のほうが、どきどきばくばくしていた。 「わたしは……? わたしはどう……?」  ちずるが耕太の前に膝立《ひざだ》ちになった。  耕太は彼女の細く白い首筋に——自分が吸血鬼だったら、きっと牙《きば》を突きたてたであろう首筋に、吸いよせられてしまう。すんすん、と鼻をうごめかした。 「しない……しません、匂い……」  じゃあ、とちずるは胸を突きだした。  すでに両の肩ひもは外れ、水着はゆるゆるになっている。ちずるが両腕で押さえているために、かろうじて胸のふくらみは隠れていた。  その胸元、谷間に顔を近づけかけて——そのとき、耕太の胸にひとつの想《おも》いが湧《わ》きあがった。しばしためらって……結局、ちずるを見あげる。 「あの、ちずるさん」 「な、なあに、耕太くん」 「その……変化《へんげ》、してもらえませんか。ちずるさんの、本当の姿になってもらえませんか」  きゅ、とちずるの唇が締まった。  ぷは、と彼女が息をはく。 「あ、だ、だって、あの姿って、やっぱり、その、け、ケモノくさいかも……し、しれないよ? や、やだ、なにいってるんだろ、わたし。いままでそんなこと、気にしたこともなかったのに……も、もう、耕太くんったら」 「ぼく、ちずるさんの本当の匂い、欲しいんです」  やっぱりぼく、えっちになってるな、と思いながら、耕太はいった。  ちずるは真っ赤になる。  うつむいて、唇をふにゅふにゅと動かして、なんどもまばたきをした。  やがて、顔をあげ——。 「い、いいよ」  上目づかいに耕太を見あげ、そういった。  首を横に振る。頭に巻いてあったタオルがほどけ、すとんと髪が落ちた。 「わたしの本当の匂い、感じて、耕太くん……」  ちずるは、まぶたを閉じ、軽くうつむいて、すー……っとゆっくり息を吸った。深呼吸するたび、胸はふくらみ、また縮む。  やがて、風に吹かれたかのように、髪がそよぎ始めた。  ぶわりと髪は広がり、瞬時にその色彩を変える。  艶《つや》やかな黒髪から——まばゆい金髪へと。  黄金色の輝きを放ちだした頭部から、おつぎはにゅきにゅきっと三角形の耳が飛びだす。髪とおなじ金毛をふさふさと生やしたそれは、動物の耳だった。先端だけが黒い。  ちずるの背……お尻《しり》のあたりからは、しっぽが生えていた。  太く長く、耳と一緒で先っぽの黒いそのしっぽは、狐《きつね》のしっぽだ。  ちずるは、狐の姿へと変化していた。  彼女は狐——妖怪《ようかい》、化け狐であった。その年は四百歳を越え、力は並みの妖怪よりはるかに上。そんなちずるが、耕太の学校のひとつ先輩で、ちょっとえっちな恋人で、いまでは婚約者にまでなっているのだから、まったく人生とはわからない。  ちずるの狐のしっぽが、しゅるん、と弧を描く。 「じゃ、じゃあ、はい、耕太くん……どうぞ」  もじもじしながら、ゆるゆるの水着と、その上から押さえた腕で隠れている乳房を、耕太の前にさしだした。 「で、では……失礼します」  耕太は鼻を近づけ、思いきり息を——。 「いったいなにをやってんだ、おまえら……?」  ぶふっ。  息を吸いこもうとしていた耕太は、逆にちずるの胸元に鼻からの息を吹きかけてしまった。あわてふためきながら、声のした側、浴室の入り口を見る。  いつのまにかくもりガラスの戸は開いていた。  そこから、長身の男が顔を覗《のぞ》かせている。黒く、袖《そで》の長いジャンパーを着た男の髪は、毛先が肩にかかるほどに長い。ちずるに似て、つり眼《め》だった。 「た、たた……たゆらくん!」 「おう」  手をあげた彼の名は、源《みなもと》たゆら。  ちずるの弟であり、ちずるとおなじく化け狐だ。耕太のクラスメイトでもあり、その整った顔かたちから、けっこう女生徒に人気があった。 「年明け早々、おまえら、なんだ? まあ水着姿なのはいい。どうせちずるが、いっしょにお風呂《ふろ》に入りましょー耕太くっふーん、とかなんとかいって、耕太、おまえが、ダメですよぅちずるさっはーん、とかいいながら、まーたいつものように流されて、折衷案として水着姿で入浴と、まあそんなところだろう」  見事な推察であった。耕太は感心する。 「で、それはわかるんだけどよ……なんでちずるはその、狐《きつね》の姿になって、なんで耕太、おまえはちずるの胸元に顔をよせていたりなんかしたんだ?」 「い……いや、その、それは、あの」  しどろもどろになる耕太。あうあう。 「うるさいわね、たゆら。おまえこそ、なんだってひとさまの入浴姿を覗《のぞ》いたりなんかしてるわけよ。返答しだいによっては……」  ちずるが片手をあげ、手のひらの上に、炎の玉を燃やした。  その淡い赤色の炎は、狐火《きつねび》。  化け狐であるちずるの術のひとつである。いいところを邪魔されて本気で怒っているらしく、狐火の大きさはバレーボール大だ。さらに狐の耳がぴん、とそそり立っていた。  まあ待て待て、とたゆらは両の手のひらを伸ばす。 「そんなに怒るなよ。ただおれは、初もうでに一緒にいかないかって誘いにきただけなんだから……寮の耕太の部屋にいったら、なかにはだれもいなかったからさ。どうせまた新たなエロスの地平を目指してるんだろうなって思って、こっちにきてみたんだよ」 「な、なによ、新たなエロスの地平って!」  めずらしくちずるは動揺をみせた。  髪が金色になったために、いっそう白く映える頬《ほお》を、ほんのりと赤く染める。新たなエロスの地平……たしかにそうかも、と耕太はうつむいた。 「……やっぱり、さっきのは新たなプレイの一環だったのか?」  たゆらがじとりと眼《め》を細めていた。軽蔑《けいべつ》、とそのまなざしには書いてあった。 「「ちーがーいーまーすー!」」  耕太とちずるは同時に答えていた。浴室にふたりのハーモニーが響く。  がっはっはっはっは。  大音声が、そのエコーを打ち消した。  こ、この豪快な笑い声は……。  眼をぱちくりとさせながら、耕太は浴室の入り口を見つめる。そこから覗きこんでいたたゆらの後ろから、ぬっ、と大きな影が姿をあらわした。  身を屈《かが》め、男はその顔を見せる。 「ふふ、新年早々、仲の良いことで、結構だな、小山田《おやまだ》よ」  大きく、ごつごつした顔つきだった。  無精ひげを生やし、左眼は、過去の闘いによるものか、十字の傷でつぶれている。残った右眼をにこやかな笑みのかたちに細めた彼は、その巨体を紋《もん》つき袴《はかま》に包んでいた。胸についた家紋をよく見れば、熊《くま》のマークである。 「く——熊田《くまだ》さん!」 「小山田よ、まずはあけましておめでとう」  おめでたい装いをした大男が、巨体を折るようにしておじぎした。耕太もあわてて、あけましておめでとうございます、と頭を深々とさげる。 「あら? わたしには新年の挨拶《あいさつ》はないの、熊公《くまこう》」  ちずるは腰に手を当て、胸をつん、と張っていた。すでに水着は元通り、きちんと着用して、こぼれ落ちそうな胸もしっかり納めてある。 「ち、ちずるさん」  彼、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》は、耕太が通う高校——薫風《くんぷう》高校の、番長だった。  とはいえ、耕太の学校にはそんなに不良と呼ばれるような生徒はいない。たまにいても、あまりつるむことはなかった。そう、人間の生徒のなかには。  熊田が上に立つのは、人ならぬ生徒たち——。  すなわち、妖怪《ようかい》だ。  薫風高校には、ちずるとおなじように人の姿をした妖怪が、人間に混じってひそかに生徒となっていた。彼ら、彼女らはみな、罪を犯した妖怪である。罪といっても、妖怪用の刑務所に入るほどではない、軽微な罪状のものたちだ。彼らは、人の世界のルールを身をもって学ぶために、人間の高校生たちとともに学校生活を送っているのだった。  ヒグマの妖怪である熊田は、実力、人望、ともに校内一。  そんな熊田を熊公呼ばわりできるのは、学校ではちずるぐらいなものだ。さらにいえば、熊田の下についていない妖怪も、ちずるとたゆらぐらいなものだった。  ぬ? と熊田がひたいに皺《しわ》を刻む。 「ふむ……源《みなもと》よ、おぬしは小山田の妻になったのではなかったのかね? そうなれば、小山田耕太に小山田ちずるで、どちらも小山田。たとえ小山田の名だけ呼んでも、べつに問題ないかと思っておったが……違っていたか。これは失礼した」 「ち、違ってない! 失礼でもない!」  あはははー、とちずるが笑顔を見せる。やだなー、と頭をかいた。 「なによ、熊田ったら、闘いのことしか眼中にないバトルバカだと思っていたら、意外と男女の関係にも敏感なんじゃない。もう、もう」  さすがだなあ……。  すっかり機嫌を直したちずるを見て、耕太はそう思った。これぐらいのあしらいができちなくては、さまざまな魑《ち》魅《み》魍魎《もうりょう》を相手に、番長として君臨することはできないのかもしれない。  ふいに耕太は思った。  熊田は三年生、今年で卒業だ。  じゃあ、つぎの番長は、校内における妖怪たちの長は、いったいだれになるんだろ?  そのとき、がたがたと脱衣場のほうで音が鳴る。まただれか入ってきたようだ。 「熊田さん! おれたち、いつまで待つ? 外寒い……バカップルなんか、もうここに置いていくべき! おれそう思う!」  もしかしたらつぎの番長なのかもしれない男の声が、聞こえた。 「おお、桐山《きりやま》に澪《みお》。ほら、おぬしたちも、新年の挨拶《あいさつ》を」  やだ! ときっぱり断った男を、き、桐山くん……と気弱な少女の声がなだめる。  うー、とうなりながら、男の足音が近づいてきた。  板間がきしむ。どうやら土足らしい。 「おう、あけたけどちっともめでたくないな、バカップル! 新年早々、エロ! バカ!」 「あ、あけまして、おめでとう、ご、ござござ……きゃっ」  ふたりが姿を見せた。  ひとりは、耕太よりもやや背丈が高いくらいの男だ。  彼は赤茶けた髪を、つんつんと上に尖《とが》らせていた。普段も鋭い目つきを、いまはさらに鋭くさせ、とても嫌そうにゆがめている。その姿は薫風《くんぷう》高校の制服である、ブレザーだった。  もうひとりは晴れ着姿の少女で、水着姿の耕太とちずるを見るなり、手で顔を覆《おお》っていた。おかっぱ頭の顔を覆ったちっちゃい手から、赤いたもとが長々と垂れ、小学生のような身体を隠す。ちょっと七五三に見えないこともない。  男は桐山《きりやま》臣《おみ》。少女は|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》。  どちらも妖怪《ようかい》である。桐山はいたちが変化したかまいたち、澪は人間にかえるが憑《つ》いた半妖《はんよう》だった。彼らはどちらも熊田《くまだ》を慕っている妖怪であり、そのため、とくに桐山は、熊田をまったく敬っていないちずるやたゆらとはあまり仲がよろしくない。 「桐山さんに、澪さんまで……」 「いったいなに? いつのまにわたしたち、そんなに仲良しになったの? お手々つないで神社にお参りなんて、そんな仲じゃあないでしょうよ」  ふふ……。ちずるの言葉に、熊田が静かに笑った。 「まあそういうな。たしかに我々と、おぬしら源《みなもと》姉弟《きょうだい》とは、あまり関わりあうこともなかったが……小山田を通じて、多少なりともわかりあえたのではないかね?」  耕太の脳裏に、さまざまな思い出が浮かぶ。  ちずるを守るための、熊田との闘い。  ちずるを守るための、人狼《じんろう》との闘い。  ちずるの母親に呼ばれた先での、冬山での闘い。  そのすべてにちずるが関係しているのはともかく、たしかに熊田たちとはいろいろあった。それは耕太にとって、とても不思議で、だけどかけがえのない思い出でもある。 「わたしももう、今年で卒業だ……熊田《くまだ》流星《りゅうせい》としては、もはやこの学校におとずれることもあるまい。そこで、まあ、最後の年に、おぬしらと初もうでなどどうかな、と、わたしからこの弟御に誘いかけてみたのだ」  たゆらが、へへ、と笑う。  耕太はちずるを見た。ちずるも耕太を見ていた。  はあ、とちずるがため息をつく。 「あー、もー、わかったわよ。あなたたちと一緒にお参りなんかしたって、たいして面白いこともないでしょうけど……ま、しかたないか」  プラスチックの桶《おけ》に、鏡の下の蛇口からお湯と水をそそいだ。 「はい、耕太くん」  と、さっきちずるのおっぱいスポンジでぬるぬるになった耕太の背に、ちゃばちゃばとぬるま湯をかけてくる。石けんのぬめりが流れた。 「あ、じゃ、ちずるさんも」  耕太も桶にお湯をためた。  ちずるが振りむく。浴室の入り口に向かって、手をひらひらと振った。 「いつまでデバガメこいてんのよ。着替えるんだから、ほら、さっさといった、いった」  うぃーす、と彼らはぞろぞろでてゆく。  からからから、とガラスの戸が閉まった。 「さて、と……耕太くん」  身体を流してあげようと桶を持った耕太に、ちずるはにこりと微笑《ほほえ》みかけてくる。 「邪魔ものがいなくなったところで……さっきの続き、すましちゃおっか」 「さっきの……つ、続き?」  ちゃぱん、と耕太の持つ手桶のお湯が、跳ねた。 「そう……ほら、わたしの本当の、匂《にお》い……耕太くん、嗅《か》ぎたいんでしょう?」  いうが早いか、ちずるは水着の肩ひもを外していた。  胸の水着を両の腕で押さえ、たゆたゆんと肌色の谷間をあらわにする。普段、外にさらされていない部分だからなのか、とても白く、とてもやわらかそうに見えた。 「ね、ぱぱっと」 「ぱ、ぱぱっと……」  ぱぱぱ〜。  耕太は桶を抱えたまま、その深い闇《やみ》の切れ間に、ぽてん、と顔を落とした。  ふたつの山のあいだに、鼻をしっぽりと埋める。  それだけでも、ちずるのあの、甘くまったりとした、心とろかす、あたたか〜な匂いが感じられた。やはり人の姿のときより、匂いは強く、濃いようだ。  耕太は口から息をゆるゆるとはいて、さあ、いまこそ、胸いっぱいに——。 「——くさい」  横からの声に、耕太はびしーっと背筋を反らせた。 「な、あ、はー!?」  真横に、ジャージ姿の少女が座っていた。  その短めの髪は、白髪にも似た銀髪だった。肌もまた、青みを感じさせるほどに白い。そんな、どこかはかなさを感じさせる顔つきを、少女はかすかにしかめていた。  うー、と彼女がうなる。 「ちずるも、耕太も、どっちもくさいよ」  きっぱりと断言された。 「いやらしい匂《にお》いする。発情期の……ケモノの匂い」  耕太は桶《おけ》を持ったまま、口をぱくぱくとしかできない。先に我に返ったのはちずるだ。きっと金色の眼《め》をつりあげ、銀色の眼の少女を睨《にら》む。 「ど、どこから、いつのまに入ってきたのよ、望《のぞむ》!」 「あっち」  少女が指さしたのは、浴室の天井近くにある、横長のサッシだった。  窓はがらりと開いていて、そこからぴゅう、と風が入りこんでくる。冬風の冷たさに、耕太とちずるは自分の身体を抱き、震えた。 「入ってきたのは、さっき。耕太がちずるのくさい匂い、くんくんしようとしたとき」  そういったとたん、がやがやと足音が近づいてきた。 「おーい、もしかして、望、そっちにいってないかー……って、あ、いた」  うん? と銀髪の少女は、顔を覗《のぞ》かせたたゆらたちに向かって、首を傾《かし》げた。  この浮世離れした彼女は、犹守《えぞもり》望。  やはり妖怪《ようかい》で、狼《おおかみ》の化生《けしょう》、人狼《じんろう》である。狼であるがゆえに、きわめて匂いには敏感だった。匂いから耕太とちずるの状態を見抜いたのも、当然といえよう。  そして望は、耕太の自称、アイジンだった。  だから、さっき耕太とちずるの新たなプレイを邪魔したのも、やはり当然……なのかな。 「ちょっと! 保護者だったらちゃんとこいつ、見てなさいよ!」  ちずるの言葉に、いやあ、とたゆらは頭をかいた。 「せっかくだから、望も誘ったんだけど……こいつ、いつもはおとなしいっつーか、無口だろ? ついつい存在を忘れてしまってさ——と、それにしても」  じとりと眼を細めた。あの軽蔑《けいべつ》のまなざしだ。 「おまえら……ホンット、隙《すき》あらばいやらしいことをするんだな」 「い、いやらしいなんて、そんな!」 「ホントだよたゆら。耕太とちずる、発情期のケモノの匂い、ぷんぷん」 「の、望さん!」  たゆらはぽりぽりとこめかみのあたりをかく。んー、と片|頬《ほお》を舌でふくらませた。 「おまえらさ、べつに無理して初もうで、こなくてもいーぜ? よくよく考えてみたら、神社って清浄なる場所だろ? そこにおまえらみたいのが入りこんだら……」 「汚れまくり! こいつら、エロエロ!」 「き、桐山《きりやま》くん……そんな、は、はっきりいっちゃ」 「まあまあ、弟御も桐山も澪《みお》も、そう責めるものではない。日本の神仏は、そのあたり、おおらかなものだぞ。そもそも男女が愛しあうことが、汚らわしいわけもあるまい」 「いや、そうはいうがよ、熊田《くまだ》の大将。こいつら、普通の愛しあいかた、してねーから」 「そ、それってどういう意味、たゆらくん!」 「ん? いっていいのか?」  う、と耕太は固まる。な、なにを知ってるの? 「あー、もー、いい!」  ちずるが、耕太をかばうように前にでた。 「そんなにわたしたちを仲間はずれにしたいんなら、それでもいい! 耕太くんとわたしだけで、ひたすらいちゃついてやるんだから! ふたりきりにしたらどうなるのか、覚悟してなさい!」 「えー!」  声をあげる耕太の横を、望《のぞむ》がとたとたと歩いてゆく。  振りむいた。 「じゃ、わたしもがんばる」  え? 「な、なにを?」  ぐ、と望はガッツポーズを見せた。ただ、それだけだった。 一月 はるかかなたへ遠吠え      1  横たわった夜の向こうに、彼女の、犹守《えぞもり》望の寝顔が見える。  そこは、見るからに値の張りそうなマンションだった。黒を基調とした真新しい外観で、十二階建て。その屋上、つまりは十三階といってもいい場所に、いわゆるペントハウスといえばいいのだろうか、庭つきの建物が、たったひとつだけある。  犹守望は、そのだだっ広い部屋に住んでいた。  窓のカーテンは引かれていない。今夜は雲がなくて、だから月が明るく、そのため、こちら側から室内がよく見てとれた。  全面板敷きの、フローリングの床。  そのど真ん中に、犹守望は眠っていた。シーツ一枚にくるまって、床に直接、横になり、月明かりに照らされている。  部屋のなかにベッドは見あたらない。それどころか、クローゼットや棚、テーブル、テレビやオーディオなど、家具らしきものがまったく存在しなかった。もしかしたらほかの部屋——あと三〜四部屋はありそうだった——に置いてあるのかもしれないけれど。  唯一あるのは、壁ぎわに置かれたハンガーラックだ。  ハンガーには、学校の制服——薫風《くんぷう》高校のブレザー、スカート、ワイシャツに、ジャージの上下がかけてある。服はそれだけだ。もしかしたら、私服と呼べるものを持っていないのかもしれない。  ふいに、シーツにくるまって丸くなっていた犹守《えぞもり》望《のぞむ》が、むくりと身を起こす。  四つんばいになって、ぐーっと犬のように伸びをした。ぐきん、ぐきんと首をひねる。立ちあがり、歩きだした。大きなガラス窓の前に立つ。  窓を開けた。サッシに鍵《かぎ》はかけてなかったようだ。すー……っと開き、とん、と外に降りたった。その足は裸足だ。  彼女は学校のジャージを着ていた。  どうやらそれが寝間着らしい。よれよれの裾《すそ》から、おなかに手を差しいれ、ぽりぽりとかく。いまは一月、真冬なのに……寒くはないのだろうか? 部屋のなかでシーツ一枚なのは、ヒーターや床暖房もあるだろうし、わかるのだけど。  ぴゅうぴゅうと風吹く屋上に、ジャージ一枚で立ち、犹守望は夜空を見あげた。  月を見あげているらしい……と気づいたときには、彼女は青ざめた月に向かって、吠《ほ》えていた。  あぉ————ん……。  見事なまでの遠吠《とおぼ》えだった。  吠え終わったとたん、遠くから、おなじく遠吠えが返ってくる。わぉーん、きゃいーん、くぅーん、きゃんきゃん……どうやら、彼女が住むマンションの下の階からも返事が戻ってきているようだ。  犹守望は、満足そうにうなずく。  こくこくとうなずきながら、部屋に戻っていった。  床の上でくちゃくちゃになっていたシーツに、また身をくるむ。床に丸まって、むにゃむにゃと唇を動かした。  こ……う……た……。  そう読めた。耕太《こうた》。小山田《おやまだ》耕太?  なるほど、と思う。だって彼女は、あの男の——小山田耕太の愛人なのだから。 「ねえ、見た? いまの見た?」  つい、あのエロス大王の幼くもノーテンキな顔を思いだしてしまって、胸をムカムカさせていたわたしに、おなじくノーテンキな顔をした相棒が、横から話しかけてきた。  彼女は毛布にすっぽりと身を包み、そこからベリーショートのくせっ毛頭をだしている。そのそばかすの浮いた頬《ほお》を、すっかり興奮の色に染めあげていた。  笑みのかたちの唇から荒くもれる、白い吐息。  彼女は手袋をした手で、ビデオカメラを構えていた。カメラには望遠レンズがはまっていて、マンガにでてくるような、未来の銃っぽい。レーザーとかいうやつ? 「見たわよ……見たというか、聴いた……」  おなじく毛布にくるまり、こちらは双眼鏡でもって向かいのマンションを覗《のぞ》きこんでいたわたしは、元気すぎるほど元気な彼女をなだめたくて、わざとアンニュイに答えた。あんまり効果はないようだけど。  わたしたちは、犹守《えぞもり》望《のぞむ》がいま遠吠《とおぼ》えをあげたマンションの、真向かいにあるビルの屋上にて、厚着をし、毛布にくるまり、さらには段ボールで簡易テントをこしらえていた。  そうして盗撮している。  彼女を。  クラスメイトを——銀髪の少女、犹守望を。 「やっぱりほら、やっぱり犹守さん、不思議少女だよ! すごい、すんごいの見ちゃった! わぉぉぉぉーんだって! ね、ね、ね、きーちゃん!」 「不思議さにかけては、あなたも負けてないでしょ、ユッキー……」  わたしの名前は、きーちゃんなどではない。  高菜《たかな》キリコという名があるのだ。きーちゃんなんてあだ名、恥ずかしいからやめてといくら懇願しても、相棒——佐々森《ささもり》ユウキは聞く耳を持たない。いくらいっても無駄なので、対抗してユッキーなんておバカなあだ名で呼んでみたら、逆に喜ばれる始末だった。  わぁい。なんかわたしたち、すっごく仲良しさんみたいだね!  このおバカ。仲良しもなにも、わたしたちは幼稚園のときからのくされ縁じゃないか。  思いだしたらムカムカしてきたので、軽く睨《にら》みつけてやる。 「いくら犹守《えぞもり》さんがヘンだからって、わざわざこんなところで、夜通し盗撮なんて、普通、しないぞ」  まわりを眺めた。  わたしたちのまわりには、食べ終えたお弁当のカラ、魔法瓶、食べかけのお菓子がある。前しか開いていない段ボールのテントのなかにいるため、いまは見えないが、外ではリュックサックが吹きっさらしになっているはずだ。 「やった! ちゃんと撮れてたよ、いまの衝撃映像!」  いつもながら、人の話を聞いていないユッキー。  こいつ、産まれてすぐに七歩歩いて、天上天下唯我独尊とかいってないよね? 思わずそんなことを考えてしまったわたしの横で、ユッキーはいま撮ったばかりの映像を再生している。ビデオカメラに備えつけの小さな液晶画面を、食い入るように見つめていた。  画面では、よれよれのジャージを着た銀髪少女が、あぉーんと遠吠《とおぼ》えしている。 「……ねえ、それってやっぱり盗撮だし、盗撮は犯罪なんだし、そこらへん、わかってるかな、ユッキー」  もちろんユッキーはわかっていない。  繰り返し映像を再生して、ひとり鼻息を荒くしている。  わたしはため息をこぼしながら、魔法瓶から紙コップに、紅茶を注いだ。  湯気たつ紅《あか》い液体を、ずず、とすする。いまは一月。いくら月末に近いとはいえ、まだ雪だって降ってる。最近は天気が晴れ続きなのが救いだが、女子高生ふたりが野宿するには、まだまだ厳しいはずだ。  もう、学校だって始まってるのに……ふうふうと吹きながら、ほろ苦いお茶を飲む。  わたしと違って、となりの相棒はじつにいきいきとしていた。  そりゃあ、自分がやりたくてやってるのだから……べつにやりたくないわたしは、きっと生気のない顔をしていることだろう。夜更かしは美容に悪いし、髪にも悪い。冬の空に野宿ならなおさらだ。  ふいに、ユッキーのトウモロコシの先っぽのようなくせっ毛頭を見た。  いいなあ……。  その手入れのいらなそうな頭を、わたしは心底うらやましく感じた。わたしの髪はそこそこ長く、そこそこきれいだ。真ん中で分けた髪を、胸元まで垂らしている。  これは乙女のトップシークレットのひとつだが、じつは左右で髪質が違う。  だから、頭の真ん中で分けた髪の両方を、おなじ見た目にするのには、毎朝苦労させられてきた。寝不足だと……疲れのせいか、左のくせが強くなる。  ああ、きっと明日の朝も——。  わたしは紙コップのなかに、深いため息を落とした。      2  それは、三学期が始まったばかりの、昼休みの教室でのことだった。 「ねえねえ、きーちゃん! 犹守《えぞもり》さんって……どう思うー?」 「……どう思うって、なにが?」  小声で話しかけてくるユッキーに、わたしはサンドイッチを食べながら尋ね返した。  ユッキーの手には大きなおにぎりがある。その三角形の一角はすでに丸く削れ、ユッキーの口元にはお米つぶがくっついていた。手を伸ばして、そのつぶをとってやる。ありがと、と彼女はわたしの指に直接ぱくついた。  むぐむぐと口を動かしながら、ユッキーはいう。 「犹守さんってさあ……なーんか、ヘンだと思わないー?」 「彼の——小山田くんのまわりにいる人は、だいたいヘンでしょ」  サンドイッチをかじりつつ答えた。しやくしゃくとレタスが砕け、ハムの味と混ざる。  へっぶちょん。  いっせいにくしゃみがあがった。  あげたのは、いままさに彼の——小山田耕太のまわりにいる人たちだった。  まずはひとり。二年生なのに、わざわざ一年生の教室にきて、小山田耕太の膝《ひざ》の上に座っている、ぼん、きゅ、ぼーんなたいそうお下品なボディーの持ち主、源《みなもと》ちずるだ。手作りのお弁当を手ずからに食べさせていたそのセンパイが、ぷしっと顔をゆがめている。  小山田耕太の前の席には、その源ちずるの弟、源たゆらがいる。彼も姉とおなじく、けっこうな問題児で、よく授業をサボっては、斜め後ろの席の委員長に怒られていた。斜め後ろ——つまり小山田耕太の真横にいる委員長は、朝比奈《あさひな》あかね。彼女は、源たゆらのみならず、隙《すき》あらばエロス行為にふけるエロスカップル、小山田耕太と源ちずるによくお説教していた。監視の目が強すぎて、もしかして彼女も? と思うときがたまにあるほどに。  そして朝比奈あかねの席の、前方。  源たゆらの真横、小山田耕太の斜め前の席に、彼女がいる。いま、わたしたちの話題の中心にいた人物が——。  銀髪の少女、犹守《えぞもり》望《のぞむ》だ。  彼女は源ちずるとおなじように、小山田耕太に手作りのホットドックを食べさせようとしていた。食べかけのホットドックを持ったまま、鼻の下をぐしぐしとこすっている。  いわばクラスの問題児とその監視員が集められた、窓際前の一角。  そこに座る四人が、いっせいにくしゃみをしたのだった。  だれかうわさしてる? ときょろきょろしだす。  ただひとり、くしゃみをしなかった男は、まわりの四人から飛ばされたお米つぶやらパンかすやらなにやらのいろいろな食べかすを、ティッシュでぬぐっていた。  源ちずるを本妻に、犹守望を愛人にして、委員長すらあやしいとたまに感じさせる、エロス大王——小山田耕太、その人だ。  本妻とか愛人とか、どう考えても高校一年生にはそぐわない言葉だが、現実にそうなっているんだからしかたない。  ふん、とわたしは鼻を鳴らす。 「——で? あのヘンな人たちが、いったいどうしたって?」 「たしかにね、小山田くんのまわりはみーんなヘンで、みーんな怪人なんだけど、でもさ、犹守《えぞもり》さんは特別にヘンなの。こう、胸にきゅーんとくる……不思議少女ってやつ?」  その『胸にきゅーんとくる』の基準がよくわからない。みんな等しくヘンに見えるわたしは、「はあ」としか答えられなかった。  そんな気の抜けた返事がいけなかったのか、ユッキーはぷう、とそばかすの頬《ほお》をふくらませる。ごそごそと机のなかをあさりだした。  なにやら四角いものを取りだす。  片手でつかめるサイズの、黒い、レンズのついたその機械は——。 「ビデオ? どうしたの、そんなもの。朝比奈《あさひな》さんに見つかったら、また怒られるよ」  ユッキーはふっふっふ、と笑う。 「これ、パパのなんだ。なんか、でーぶいでーに保存できるとかなんとか……だけどパパ、すーぐに飽きて放置プレイだから、わたし、貰《もら》っちゃつた」 「つまり、また勝手に持ってきたわけだ。あと『でーぶいでー』じゃなくてD、V、D」  えーと、とユッキーがビデオをいじりだす。 「あ、でてきたでてきた……ほら、見て」  おぼつかない手つきながら、いちおうは操作できるらしい。ほかのクラスメイトに見られないよう、机の影に隠したビデオカメラに、わたしは目をこらした。  液晶画面に、ジャージ姿の犹守《えぞもり》望《のぞむ》が映っている。  彼女以外にももうひとり、ジャージ姿の生徒が横に並んでいた。クラスメイトのペコちやん……陸上部の若きエースだ。ふたりで白いラインの前に屈《かが》みこみ、両手を地面につけている。クラウチングスタートというやつだろう。 「これって……この前の体育の?」  どうやら、校庭での五十メートル走のときの映像らしい。 「そういえば、ユッキー……たしか生理痛がひどいって、休んでなかったっけ」 「うん。あれはサボり」 「……授業サボって、こんなの撮ってたの?」  映像が動いた。  液晶のなかで、ペコちゃんがスタートを切る。さすがに陸上部というか、きれいな走りだった。すぐさま画面の外に飛びだしてゆく。  そして犹守望といえば、『ん?』という顔をして、きょろきょろとまわりを見回していた。いまだ彼女はスタートラインにしゃがみこんだままだ。 「これじゃ、音が聞こえないね……」  ユッキーがぺちぺちとボタンを押す。  走れ、走れ、との声が小さくビデオのスピーカーから流れだした。  体育教師の声だ。陸上部の顧問でもある女性教師の、すこしドスの効いた声に、銀髪の少女は立ちあがる。  ふらりと立って……つぎの瞬間、消えた。  そのまま画面は、しばらくだれもいないスタートラインを映していたが、やがて我に返ったように動きだした。ぶん、と横に流れる。先に走っていたはずのペコちゃんが、一瞬だけ映った。  ペコちゃんを追いこして、カメラが犹守《えぞもり》望《のぞむ》に追いついたときには、すでに彼女はゴールのラインを駆けぬけていた。  ただし、四つ足で。  まるで野を走る獣のように、犹守望は四本足で走っていた。  むくりと身体を起こし、二本足になって、ゆるゆるとスピードを落とす。やがて立ち止まった。ぱんぱんぱん。手のひらをはたいて、土ぼこりを飛ばす。  一緒に授業を受けていた生徒のどよめきと、女性教師のきちんと二本足で走れ、という怒号を収めて、映像は終わった。 「そういえば……こんなこともあったね」  液晶に映る犹守望の姿を見ながら、わたしはいった。 「感想はそれだけ? きーちゃん」 「それだけって……ほかになにが?」 「わっかんないのー? 普通さあ、四つんばいになったら、すっごく走りにくいもんでしょー? なのにさあ、犹守さんってば、すっごい速さなんだよ。遅れてスタートしたのに、陸上部のペコちゃん、追いこしちゃったんだよー?」 「あ……」  でも、とユッキーを見返す。 「あのときは、ペコちゃん、いきなり犹守さんがこんな走りかたするから、びっくりしてフォームを崩したって……」 「それってヘンだよ。だって、追いこされなきゃ犹守さんの四つんばい走法なんて気づけないわけで、それまではペコちゃん、まともに走っていたんだから……ね?」  いわれてみればそうだ。  つまり犹守望は、まともに走っていた陸上部のランナーよりも速かったことになる。それも四つ足でだ。 「いろいろさ、おかしいんだよね」  うかがうように、ユッキーがこちらを見た。 「ペコちゃんにあとから話を訊《き》いてみたけど、どうもペコちゃん自身は、あんまりこのこと話したくないみたい。きっとすっごいショックだったんだね。このあとペコちゃん、ひどいスランプになっちゃったみたいだから……」  それにさ、と続ける。 「先生もさ、陸上部の顧問でしょ? だったら犹守《えぞもり》さん、スカウトとかしてもいいじゃない。なのにちっともそんなそぶりなくって……それどころか、話を訊《き》きにいったわたしのこと、すっごく怒るんだよー? そのうち八束《やつか》先生まで混ざってさ、おまえの父親は医者だろう、そのメルヘンな頭をいちど診《み》てもらったらどうだ、なんていいだしてさー?」 「それは……ひどいかも」  じつはわたしもなんどかそう思ったことがある、というのは内緒にしておいた。 「なーんだろ。なんか、なにかを隠しているような……インボーの匂《にお》いがするよ、これは」 「……やっぱり、いちど診てもらったほうが」 「え? なに?」  ううん、なんでもないと笑顔を作った。 「で、犹守さんがインボーの匂いのする不思議少女だとしたら、どうする気?」  にへへー、とユッキーは笑った。  びし、と挙手をする。 「わたくし——犹守さんに密着取材、いたしたいと思いますっ」 「……好きにしたら」  サンドイッチをぱくつく。すべて口のなかに詰めこんだ。 「あーん、きーちゃんったら、つーれーなーいー」  ビデオ片手にユッキーは身をよじる。 「あなたね、なんどかそれで痛い目に遭ったこと、もう忘れたの? 砂原《さはら》先生を取材すればなぜか機材が壊れ……あのときは八ミリのビデオカメラだったっけ、それに細かい砂が入ってぜんぶダメになって、ユッキーのパパにすっごく怒られて、八束先生を取材すれば、すぐに尾行に気づかれて反省文十枚書かされて、朝比奈《あさひな》さんを取材したときはなぜか源《みなもと》くんがあらわれてナンパされて、あの……小山田くんのときは……」  胃からのど元にこみあげてくるものがあった。  ごきゅ、とどうにかサンドイッチを呑《の》みこむ。 「ああ……あれはひどい目にあったねー」  あはははー、と笑うユッキー。  こちらは笑いごとではない。ちらりとエロス大王、小山田耕太と、その膝《ひざ》に腰かけるエロス女王、源ちずるを見た。 「小山田くんを取材してたら、なぜか、源くんのお姉さんがあらわれてねー……」  そうなのだ。  小山田耕太に、密着取材という名のストーカー行為を始めて、三日目のこと。  そこまでは取材は順調だった。ユッキーのパパの新しいビデオカメラで、彼の姿を撮り続けていた。順調すぎて、だから油断していたのかもしれない。  思えば三日目のその日、小山田耕太のそばに、源《みなもと》ちずるや犹守《えぞもり》望《のぞむ》の姿はなかった。  本来はそこで怪しむべきだったのだろう。それまで、いつも彼のそばには彼女らの姿があったのだから。  そう、それは罠《わな》だった。  ひとりきりで帰宅する小山田耕太を尾行していたとき、いきなりわたしたちは路地に連れこまれたのだ。  そこにあの人はいた。 『ねえ、あなたたち……? 耕太くんに、いったいどんなご用なのかしら……?』  源ちずるは、満面の笑顔で尋ねてきた。  そのときわたしは初めて知った。怒った顔より、笑顔のほうがずっと怖いってことを。  こちらが小山田耕太に好意を持っているんじゃないかという誤解は、なんとか解くことができた。しかしストーキングしたおしおきとして、彼女のマンションに拉致《らち》された。  そして実験台にされた。  源ちずるの創作料理の、だ。 「あぶらあげのあんこサンド……あぶらあげのジャムサンド……ほかにもブルーベリー……すごかったよねー、あれ」 「や、やめてよ! 思いだしちゃうから!」  うっぷ、と口元を手で押さえた。 「……わたし、あれ以来あぶらあげが食べられなくなったんだから」 「ああいった努力の結果が、小山田くんがいま食べているお弁当なんだねー。うんうん、栄光の影にはたゆまぬ鍛錬があるわけだ」  うんうん、とうなずくユッキー。 「と、いうわけで、わたしたちも、ね、キーちゃあん。努力、しよ?」  甘えた声をだすユッキーを、睨《にら》みつける。 「ストーキングの努力をしろっていうわけ?」 「そんなに恐《こわ》がらなくてもヘーキだって。わたしたちには失敗という名の多くの経験があるんだよ? それに……こんどの相手は犹守さん。犹守さんのホットドック、けっこーおいしそうじゃない?」  わたしは忘れていない。  かつて犹守望が、源ちずると料理対決をしたことを。  そのときの彼女の料理はかなりひどいもので、それを食べた小山田耕太は毎回苦しんでいたが……まあ、彼の場合は自業自得だろう。ふたまたかけているあの男が悪い。 「ねえ、キーちゃあん」  甘え声のユッキーに、ため息しかでなかった。      3  カメラは、机に突っ伏して眠る犹守《えぞもり》望《のぞむ》をとらえていた。 「——犹守氏、ただいま爆睡中であります」  ナレーションはユッキーだ。  いったんカメラが引いて、教室の全景を映す。  まわりの生徒は、みな普通に起きていた。それどころか、ノートにペンを走らせている。朝比奈《あさひな》あかねはもちろん、あの小山田耕太もだ。源《みなもと》たゆらはサボったのか、椅子《いす》が空席だったが……最前列の席で寝ているのは、犹守望、ただひとりだった。 「ただいま五時限目、数学の授業の真っ最中であります……昼食後、おまけに数学とあっては、たしかに睡魔に襲われてもしかたはないところでしょう。じつはわたくし、リポーターの佐々森《ささもり》も、普段は眠っちゃっていますが……しかしながら犹守氏、これが本日初めての睡眠ではありません。なんと、一時限目からです。一時限目、今日最初の授業、国語のときから、すっかり寝っぱなし。目覚めたのは体育と昼食のときだけです。寝る子は育つといいますが、少々やりすぎでは——おおっ?」  教師の怒声が響く。  びくびくと映像は乱れたが、盗み撮りしていたユッキーが怒られたのではないらしい。  うん? と犹守望が目を覚ました。  眼《め》をこすりながら立ちあがる。 「犹守氏、これはピンチであります。いったいどのような手段をもって、この危機を乗りこえるつもりなのか……」  えっくすいこーるはち、と犹守望は答えた。  どすんと椅子に腰をおろし、ぱたんと机に突っ伏す。  教師が、せ、正解、とじつに悔しそうな声をあげた。 「意外や意外、正攻法です。これは……睡眠学習、といっていいのでしょうか。えー、ちなみにこのあと、わたくし佐々森も質問され、まったく答えられませんでした。ザンネン。きーちゃんは見事に回答いたしました。エライ」  続けての映像は、エプロン姿の犹守望だった。  彼女はその銀髪を、白い三角巾で覆《おお》っていた。そんな格好で銀色のボウルの中身を、針金をよりあわせたような泡立て器でかきまぜている。  ちゃかちゃかちゃか……と音が聞こえた。 「えー、こちらは調理実習室です。ただいま実習まっさかり……みな、一心不乱に手作りのお菓子を調理しております。さて、犹守望は、いかなるスイーツの完成形を、そのきらめくようなプラチナの瞳《ひとみ》で見すえているのでしょうか……」  ユッキーのナレーションに、ざわめきがかぶさった。  あわてた様子でカメラが動く。ブレまくり、ズレまくりながら、エプロン姿のほかの生徒たちや、材料が載ったテーブル、食器類の入った棚などを映しだした。  ようやく焦点が合うと——そこには、絡みあうふたりの姿がある。  例によって例のごとくな、小山田耕太と源《みなもと》ちずるだった。  小山田耕太はエプロンに三角巾で、まわりのクラスメイトと変わりない。おかしいのは——そもそも二年生の源ちずるがここにいること自体、おかしいのだが——源ちずるの格好だった。  彼女は、なぜかエプロンの下に、シャツとブルマーを着ていた。  いまどき女子の体育着は、ブルマーではなく短パンである。きっとエロス大王の好みにあわせたんだろう。やはりヘンタイ。どちらもヘンタイ。 「ら、乱入です! 一年生の授業に、二年生かつおそらくは体育の授業であったろう源ちずる氏が、乱入です! 小山田耕太氏に抱きついておりますが……しかしこれは、愛人である犹守《えぞもり》氏がどのような反撃にでるか……」  耕太くーん、などというエロス女王のピンクボイスが聞こえる。  ち、ちずるひゃん、などというエロス大王のよわよわボイスも聞こえた。  くんずほぐれつなふたりに、朝比奈《あさひな》あかねが眼鏡の位置を直しながら、怒鳴っていた。もっとも、エロスキングダムを築きあげているふたりに、聞く耳はないようだったが。 「お、おや?」  カメラが動く。  犹守《えぞもり》望《のぞむ》は——まったくふたりをかえりみることなく、ひたすらボウルの中身をかきまぜていた。あまりにかきまぜすぎて、銀色のボウルから泡があふれだしている。その真っ白い泡は、なんとまあ、犹守望の半身を呑《の》みこんでいた。  あわてて駆けよったのは、朝比奈あかねだ。  彼女の説明に、ようやく犹守望はその手を止めた。クリーミーな泡から上半身だけをだしている銀髪の少女は、うん? と小首を傾《かし》げた。  こんどは、キッシッシ……と妙にいやらしげな笑いで始まった。 「さて……いよいよ深夜のお楽しみ、みなさまお待ちかねの、サービスシーンでありますよーう」  小声ながらもじつにヘンなテンションのユッキーの声とともに、教室が映しだされた。  深夜といいつつ、映像は日中。  ただし、生徒たちは脱いでいた。  スカートを脱ぎ、ワイシャツをとって……体育の前なのだろう、みな制服からジャージに着替えている。当然ながら女生徒しかいない。そのためか、とくに恥じらうこともなく、ぱっぱと肌や下着をさらしていた。  そのなかにあっても、犹守《えぞもり》望《のぞむ》は特別だ。  ぽいぽいと服を脱ぎ捨てる。彼女とくらべれば、まだまわりのクラスメイトは上品に見えるほどに。  すらりとした細い手、足、腰、そして下着があらわになるのは、あっというまだった。 「もう下着姿ですかー? なんといいますか、もうちょっと恥じらいというものがあったほうが、こう、くるものがあるんじゃないですかねー? わたくしオンナですけど、そのあたりの男性心理は……おおおっ!?」  犹守望の小ぶりなお尻《しり》を映していたカメラが、ぎゅん、と上にあがる。  すべらかな、とても白い、染みひとつない背中を映した。  その背には……ん? あるべきものがない?  留めるべき、押さえるべき、下着が——。 「ああ……あああ……ありません。彼女は、犹守望は、ブラを着用しておりません!」  映像には、つんと尖《とが》ったふくらみが、横から映しだされていた。  決して大きくはない——わたしが嫉妬《しっと》せずにすむくらいは。が、その透けるような肌の色あいはどうだ。ふくらみの頂点すら、ほとんど色彩がない。  同性なのに、美しい、そう感じてしまった。 「ああ……」  と、ナレーションのユッキーもため息をもらす。  同時に、カメラがゆっくり移動した。 「これほどまでにいさぎよい乳があると思えば……世の中には、よせてあげる、いわば偽装建築……ならぬ、偽装《ぎそう》建乳《けんちち》というものも、あるのです……」  画面に、前髪を真ん中できっちりと分け、胸元にまで垂らした女があらわれた。  ややきついまなざしで、カメラの持ち主——ユッキーを怪訝《けげん》そうに見つめている。すでにワイシャツのボタンを外し、ブラを覗《のぞ》かせているが、そのふくらみはそこそこのものだ。  っていうか、これ、わたしじゃん。 「——なにを撮っているのよ、ユッキー!!」 「最後の映像、あれはなに!」  まあまあ、となだめるユッキーを睨《にら》みつけた。  わたしたちは、ユッキーの自宅の居間にいた。  カーテンを閉めきって暗くした部屋のなか、ビデオカメラをつないだ大きなテレビの画面に、ワイシャツだけのわたしの姿が映しだされたままになっている。 「まあまあ、じゃない!」  ユッキーに飛びかかる。  ふかふかのソファーに、わたしとユッキーは並んで座っていた。押し倒されたユッキーが、ずぶずぶとソファーに沈む。 「いますぐ消しなさい! 偽装建乳とか、好き勝手なこといいやがってー!」  あははは、と笑うユッキー。 「まーたーまーたー」  ぎゅむ、と下からわたしの胸を、わしづかみにしてきた。  わたしは悲鳴をあげ、思わず飛びのいてしまう。  ユッキーは手をわしづかみのかたちにしたまま、身を起こした。ふっふっふ、と指先をいやらしく動かす。 「きーちゃんの真実は、この手が知っている……」 「このスケベ、ヘンタイ、小山田耕太! こんなの盗み撮りして、どうする気なのよ! ヘンなナレーションまでつけて……だれかに、高く売りつけるつもり?」 「もちろん、わたしだけで楽しむんだよー?」 「じ、自分、だけ?」  ユッキーはうん、とうなずいた。さっきわたしが飛びついたせいで、テーブルから落ちたリモコンを手にとる。ぴ、とテレビを消した。もうひとつのリモコンをとって、こんどは天井に向ける。  部屋の照明がついた。 「じ、自分だけなのに、どうしてこんな、ナレーションまで入れて」 「だってさ、そのほうが楽しーじゃない。きーちゃんも、面白かったでしょ?」  ため息しかでてこない。 「ユッキー……やっぱり、あなたも不思議少女だよ」  さーて、とユッキーがテーブルの上に置いてあったビデオカメラを持つ。まだテレビとケーブルがつながったままのそれを、構えた。 「校内はこんなものでいいかな。つぎは日常生活、いってみよーか?」 「日常、生活?」  わたしはユッキーが構えたカメラのレンズを、ぞっとする思いで、見た。 「……なんていうか、やっぱり、つきあいがよすぎるんだよね、わたしは」  真冬の真夜中に、ビルの屋上にこしらえた段ボールのテントのなかで、わたしはつぶやきをもらした。手に持った紙コップからは、もう湯気はあがっていない。  双眼鏡を覗《のぞ》きこんで、真向かいのマンションを眺めた。  屋上のペントハウスにいる犹守《えぞもり》望《のぞむ》に、動きはない。あいかわらず床に直接、シーツ一枚にくるまっただけで、すやすやと眠っている。  うらやましい。  くわぁ……とわいてくるあくびを、どうにかわたしはかみ殺した。  寒くはない。厚着をしていたし、使い捨てカイロも何個も抱いて、その上に毛布を巻き、さらに段ボールテントのなかにいるのだから。  だから、べつに眠っても死にはしない……と思う。  ちら、ととなりを見た。  横に並んでいるユッキーは、さきほど『月に向かって吠《ほ》える銀髪少女』なんていう衝撃映像を撮ってしまったせいか、眼《め》をらんらんと輝かせていた。眠気のかけらも感じられない顔で、望遠レンズつきのビデオカメラを覗きこんでいる。  ユッキーが寝てないのに、わたしが眠るわけにもいかない……。  わたしはユッキーと触れている部分、肩や腕に意識を集中させた。彼女のぬくもりが、伝わってくる。  すごく——温かい。 「そうだね。こんなやつを親友にもった、わたしが悪い……」 「ねー、さっきからきーちゃん、なにをぶつぶついってるの? もしかして、寝ぼけちゃってるー?」 「おバカ」  ぴし、と二本指でチョップする。いたーい、とユッキーが声をもらした。 「つきあってあげるわよ……最後までね」  吹きすさぶ冷たい夜風に吐息を溶かして、わたしは毛布を引っぱりあげた。      4 「きーちゃん……きーちゃん……」  声が近づく。と思ったら遠ざかった。 「起きて、きーちゃん、きーちゃんってば」  なんだか妙に揺れる声だ。 「きーちゃん!」  ——いや、揺れているのはわたしだ。  がっくんがっくんと、ユッキーにわたしの身体は遠慮なく揺すられていた。 「なによ……いったい……」  毛布から手をだし、眼《め》をこする。  まだあたりは夜明け前の薄闇《うすやみ》に包まれていた。というか、ここはどこ? なんだか顔が冷たいし、街が一望にできるし、前方に、黒い外観の高そうなマンションが……。 「ほら、見て、見て! 犹守《えぞもり》さんだよ!」 「犹守……?」  目が覚めた。 「そっか……わたしたち、犹守さんを盗撮して……」  いつのまにか、寝ちゃってたのか。  ぶるりと震えながら、はだけた毛布の前を合わせた。すでに使い捨てカイロは役に立たなくなっている。いくら防寒具に身を包んでいたとはいえ、やはり真冬に野宿は無謀だった。いや、ずっと夜中に起きていればよかったんだけど。  下に落ちていた双眼鏡を拾いあげる。覗《のぞ》きこんだ。 「——んん?」  なんど見ても値の張りそうな、屋上に一棟だけある部屋。  その外に、ジャージ姿の犹守《えぞもり》望《のぞむ》はでていた。  マンションなのに存在する庭で、彼女は両の手のひらを胸の前で合わせて、むーん、と力んでいる。  まるでお坊さんが拝んでいるかのような、あの姿勢は——。 「まさか……豊胸体操」 「知ってるのか、雷電!」 「だれ、雷電って? あれはね、ああいう姿勢になって、手を両側からぐっと押しつけることで、胸に筋肉をつけて……ようするに、胸のサイズを大きくする体操ってわけ。というか、ユッキーにも前に教えてあげたでしょう」 「ほう。じつにおくわしい。さすがは苦労人……いや、苦労乳」 「人のこといえる乳なの、あなたは」  にやにや笑っているユッキーの胸を、わたしは揉《も》んだ。  ぐに。  いやーん、とユッキーはわざとらしい悲鳴をあげる。  そしてわたしは固まった。  ……大きい?  いや、小さいんだけど。でも、でもでも、まさか……わたしよりも? そんな? 「ユッキー、あなた……」 「アレって、ホントに効くんだねえ」  と、ユッキーは向かいのビルで熱心に豊胸体操を続ける銀髪の少女を、指さした。  ぐっ……。  歯がみするよりほか、なかった。  教えたのはわたしなのに……。いや、過ぎたことを振り返ってもしかたがない。効果があるのはわかった。ならばわたしもがんばればいいんだ。こんどこそ続けよう。なろう、なろう、あすなろう。  犹守《えぞもり》さんだって——。  双眼鏡ごしに、むーん、と力む犹守《えぞもり》望《のぞむ》を見つめる。  彼女が努力しているのは、あのエロス大王のためだろう。頭のなかに、小山田耕太のやにさがった顔が浮かぶ。  そのだらしない顔の半分は、あの魔乳に埋もれていた。  源《みなもと》ちずるの、ゆやゆよーんに。 「アレに勝つのは……無理だよ、犹守さん」  双眼鏡から眼《め》を外し、わたしはつぶやく。  たしかに無理だろう。  不可能だろう。だってアレ、デカすぎるもん。魔乳《まにゅう》だもん。犹守さんは小さいもん。  だけど……。  わたしは初めて、彼女を、犹守望を身近に感じた。 「負けてられないよね……」 「どーしたの? きーちゃん」 「なんでもない」  わたしも毛布から両腕をだし、胸の前で手のひらを合わせた。力をこめる。むん。  寒さもなんのその、しばらく力んでいたわたしを、ユッキーは黙って見つめていたが……。 「むん」  なにを思ったか、自分でもやり始めた。  道路を挟んで、屋上の女子高生三人、朝もはよから豊胸体操。むん、むん、むん。  穏やかな太陽の光が差す、商店街の通り。  街の中心から外れた場所ではあったが、土曜日ということもあって、人の姿はそれなりにあった。  そんなぼちぼちにぎわう通りを、犹守《えぞもり》望《のぞむ》はひとりで歩いている。  姿はあいかわらずの学校指定ジャージだ。真冬で、風も冷たいというのに、ほかになにも身につけてはいない。  ただ、ビニールの大きな袋を、なかば引きずるようにして持っていた。 「——お嬢ちゃん!」  てこてこと歩く彼女を、呼び止める声があった。  威勢のいい声は、通りの軒先にカウンターをだして、そこで調理した肉を売っているお店からあがっていた。横の店では、生の肉がガラスのケースに並べてある。どうやらおなじ店で、片方では焼肉、もう片方では精肉を販売しているようだ。  焼肉側のカウンターから、コック帽をかぶったおじさんが顔をだす。 「どこにいくんだい?」  その問いに、犹守望はビニールの袋を掲げて見せた。 「洗濯」 「急ぎかな?」  ううん、と首を横に振った。 「だったら……」  肉屋の店主が、にっこり笑いながら一本の骨つき肉をとりだした。こんがりと焼かれたそれは、店ののぼりにも描かれている、スペアリブだった。 「これ、新商品なんだけど……いつもどおり、頼むよ」  受けとるなり、犹守望はかぶりついた。  がぶ、みちみち、ぷち、はぐはぐはぐ。  またたくまにスペアリブは骨だけとなった。 「ど、どうかな? 新商品、スパイシーリブ……けっこう社運、かけていてねえ」  ごきゅん、と犹守望は呑《の》みこんだ。 「びみょー」  カウンターから身を乗りださんばかりにしていた店主が、がくりと肩を落とす。 「お嬢ちゃんは……いつもはっきりしてるなあ。は、はは、ははは……」  んー、と犹守望は首を傾《かし》げ、ぺろりと唇のまわりを舐《な》めた。 「甘みが足りない」  店主がぱっと顔をあげた。 「あ、甘みというと?」 「くだもの。ごつごつして、大きくて、中身が黄色いやつ。あまずっぱいの」 「ごつごつ……大きい……黄色……あまずっぱい……もしかして、パイナップルかい?」  犹守《えぞもり》望《のぞむ》はこくこくとうなずく。 「甘みが加わると、辛さがさらにひきたつ。いまのままだと、ただ辛いだけ」 「そうか! なるほど、わたしなりに味のバランスはとったつもりだったけど……普通のソースに使う程度の果物の量じゃ、足りなかったのか! ふむふむ、パイナップルね!」  ありがとう、ありがとう。  店主のおじさんは、カウンターから腕を伸ばして、犹守望の手をとった。なんども頭をさげる。  犹守望が店から離れたときには、その手にスペアリブ入りのパックを持たせられていた。  てこてこと歩みを再開した彼女に、街のほかの人間もやたらと声をかける。 「あら望ちゃん。おみかん食べる?」 「おう! サンマ持っていきな、ベラボーめ!」 「お〜だ〜ん〜ご〜、ど〜お〜ぞ〜」 「オオカミねーちゃーん、アメあげるー!」  八百屋のおばさんから、魚屋のおじさんから、だんご屋のおばあちゃん、さらには道で遊ぶ子供まで、彼女はやたらとなつかれ、やたらと物を貰《もら》っていた。  そして犹守望は、貰うそばから食べてゆく。  食いっぷりがいいねえ、とほめられ、さらに物を貰う。また食べる。また貰う。なにを勘違いしたか、なんまいだぶ、なんまいだぶと拝むお年寄りまでいた。 「すごいすごーい!」  ノーテンキな声をあげたのは、ユッキーだ。  ビデオカメラで撮影しながら、はしゃいだ声をあげ続けている。まあ、ある意味これも衝撃映像といえるので、無理はないのだが。  わたしたちは昨日に続けて、物陰から犹守望を追っていた。  もちろん、お風呂《ふろ》に入る余裕なんてなかった。朝、わたしたちが潜んでいたビルのトイレで、なんとか顔を洗い、歯を磨きはしたが、まあ、女子高生としては失格だろう。  それにしたって、どうしてユッキーはこんなに元気なんだろうか。  寝不足のわたしには、冬の穏やかな太陽ですらまぶしい。ユッキーが着ている迷彩模様のダウンジャケットの模様も、目にぎらついた。なぜユッキーが迷彩服姿なのかといえば、やっぱり犹守望を尾行するからなのだろうか。  わたしは普通のコートにジーパンといった服装だった。こっちのほうが目立たないと思うんだけど。 「それにしても……」  電信柱の陰から、やたら大人気な犹守望の後ろ姿を見つめる。 「犹守さんったら、まるでアイドル……。どうしてこんなに人気があるんだろう」 「ねーねー、どうしてなのかな。教えてくれる、ぼくたちー?」  ぎょっとして視線を真横に向けると、なんとユッキーがインタビューをこころみていた。相手はそこいらを歩いていただろう、子供たちだ。 「あ……えと」  カメラを前に、男の子も女の子も、かちんこちんになっている。 「はーい、緊張しなくてもいいんだよー? しんこきゅー、しんこきゅー」  すーはー、と従う子供たち。 「あのねあのね、オオカミのおねーちゃんはね、ワルいヒトたちをやっつけてくれたの!」  まずは女の子が先陣を切った。 「すげーんだぜ、ヤクザをぶっとばしたんだぜ!」 「おねーちゃん、なんでもたべるの……スキキライ、ダメだって……だからわたし、セロリ、たべられるように、なったんだよ?」  どんどん情報が集まってきた。ふむふむ、とユッキーがうなずく。 「そっか……つまり犹守《えぞもり》さんは、スーパースターなんだね!」 「なんでやねん」  思わず手の甲でつっこんでしまった。 「いま、ヤクザをぶっとばしたっていったでしょ。流しちゃダメなところでしょ、そこは」 「あー!」  いきなり大声をあげるユッキー。  わたしはびくつく。子供たちもびくつく。 「な、なによ、いきなりどうしたの」 「あ、あ、あれ!」  ユッキーが指さした先には——。  うおっ。  そこには屋根があった。  商店街の通りに並ぶ、お店の屋根だ。二階建てや三階建ての建物で作られた、でこぼこした屋根のラインを、なにものかがぴょんぴょんと跳ねている。  銀髪で、ジャージ姿で、袋を持って、なにか食べてるその姿は——。 「犹守さん!? う、嘘《うそ》でしょ!」 「すっごーい……やっぱり犹守さん、運動神経、すごいよ」 「ちょっと待て! 運動神経とか、そういう問題!?」  子供たちといえば、歓声をあげ、オオカミねーちゃーん、と手を振っていた。  商店街の大人たちもあまり気にした様子はない。まったく元気な子だねえ、という声が聞こえた。だから、そういう問題?  ぴょんぴょんと犹守《えぞもり》望《のぞむ》は遠ざかってゆく。  ふ……。  知らず、笑いがこぼれた。 「これで、密着取材もおしまいね」  あの速さでは、もう追うことはできないだろう。全力で走れば大丈夫かもしれないけど、これは無断での撮影、彼女にこちらの存在を知られたらマズイのだ。カメラを構えてひーひーいいながらあとを追えば、たとえ彼女にバレなくても、彼女とお知りあいだろう商店街のみなさまにバレる。そうなれば犹守《えぞもり》望《のぞむ》にも伝わってしまう。 「ね、ユッキー……ユッキー? 残念だけど、もうこれで……ユッキー?」  いない。  あれ、ときょろきょろあたりを見回すと、なにやら背後からぎーぎーと異音が聞こえてきた。  振りむくと、そこにユッキーはいた。 「はいはーい、きーちゃん、これこれ」 「なに、これ……?」  彼女は、自転車を押してきていた。  自転車といっても、見るからにぼろぼろな、手入れという言葉とは無縁な、ひどい状態のものだった。いったいどこで拾ってきたのやら。 「ふっふっふ、安心しろ、きーちゃん。こんなこともあろうかと、波動自転車だ……って、どう? 真田《さなだ》さんの真似《まね》、似てる?」 「だれよ、真田さんって……いや、そんなことより、なんなの、このボロチャリ」 「そこに落ちてた。はい」  ユッキーが、わたしにハンドルを押しつけてくる。 「いや、落ちてたって……」 「わたし、撮るひと」  ユッキーはビデオカメラを構えた。 「さて、きーちゃんは、なにするひと?」 「わ、わたし? わたしは……」 「——なんで! ——わたしが! ——こんなこと!」  奥歯がぎしぎしきしむ。前歯の隙間《すきま》からは吐息がふしーっともれる。ハンドルはぐらぐら揺れ、ペダルときたらありえないくらい重い。  商店街を、わたしは自転車を立ちこぎして走っていた。  後ろの座席には、ビデオカメラを構えたユッキーが座っている。ふざけんな。  追いかけ続けて数分、すでに商店街は終わりに近づいていた。ふたり乗りして撮影している女子高生ふたり、じつに目立つことこの上ない。なんどか指さされもした。  まちがいなく、わたしたちの存在はバレるだろう。  ええい、知ったことか! 「——ぜったい、わたしたちの、こと、うー! ——犹守《えぞもり》、さんに、ぎー! ——バレるんだ、からね、うりゃ!」 「だいじょぶ、だいじょぶ。気づいてないよ、たぶん。……あ。ストップ!」  ユッキーの声に、あわててわたしはブレーキレバーを握りしめた。  ききーっとかん高い叫びをあげながら、自転車は止まる——どころか、つんのめって後輪を浮きあげ、そのままこけた。 「うう……」  わたしは立てない。  どこか打ったわけではなく、息は乱れて汗がだらだら、身体の奥では炎が燃えあがり、腕やら足やらがじんじんと疲れ果てていたからだ。疲労《ひろう》困憊《こんぱい》。冷たい道路が心地よい。  ユッキーは倒れた自転車の横で、いたた……とお尻《しり》を押さえていた。 「な、なんなのよ、ユッキー」  地面に寝そべりながらわたしは尋ねた。 「か、隠れて、きーちゃん」  ふたり、這《は》いずりながら道の端により、花壇の裏に隠れる。  犹守《えぞもり》望《のぞむ》は、すでに地面に降りたち、ある建物の前に立っていた。  かなり古いその建物は——コインランドリー。  がたがたとサッシを開け、彼女がなかに入る。  よろめきながら、わたしたちは建物に近づいた。なかには犹守望以外、だれもいない。彼女は、奥にある洗濯機に、手に持っていたビニール袋の中身を入れていた。逆さにして振っている。 「ふむふむ……中身はジャージと下着だけかあ。犹守さんって、普段着とか持ってないのかな? さすがは不思議少女……お? おお?」  窓のそばでうなだれ、呼吸を整えていたわたしは、その言葉に顔をあげる。  わ。  犹守望は、なんと、いまはいているズボンを脱いでいた。  ジャージの上に水色のぱんつという格好で、いま脱いだばかりのジャージの下を、顔に近づけている。くんくんと嗅《か》いだ。  うーん、と首を傾《かし》げる。  ぽい、と洗濯機のなかに放りこんだ。  洗剤も放りこみ、スイッチを入れる。がたがたと揺れる洗濯機の前で、細い脚をさらした犹守望は、さっき商店街の人から貰《もら》った物を食べだす。 「わあ……すごいや、犹守さん」 「た、たしかに。いくらなんでも、いまはいているものまで洗うとは」 「見てよきーちゃん、ほら、犹守さん、サンマを生で食べてるよ!」 「そっちかい!」  びし、とつっこむ。  いやまあ、それはそれですごいんだけど。犹守《えぞもり》望《のぞむ》は、サンマを頭からかじっていた。はぐはぐと口を動かすたび、どんどん口中に消えてゆく。 「それにしても、さっきから食べっぱなし。よくあれであの体型を維持して——」  後ろで、車が急ブレーキをかけた。  振りむくと、いまわたしたちが覗《のぞ》きこんでいるコインランドリーのすぐそばに、黒光りする角張った車が停《と》まっていた。  これは車に詳しくないわたしでも知っている。ベンツだ。  すべてのガラスに黒いフィルムを貼《は》ったその車から、どやどやと男たちが降りてきた。  これも見ただけでわかる。ヤクザだ。  いや、これがもう、ヤクザとしかいえない人たちだった。悪そうな顔で悪そうな表情をして、悪そうな服装に身を包んだ男が、計六人、こちらに向かってくる。ちなみにこの場合の『悪そう』は、知性と精神、どちらにも当てはまっている。 「なんじゃガキィ! いたずらすんぞコラァ!」  ダウンジャケットやスカジャンを着たチンピラ……もとい、若者たちが、思いきり犯罪発言をかましてきた。  まあまあ、とその後ろから、白いスーツに黒いネクタイ、赤いワイシャツと、理解に苦しむ格好をした中年の男があらわれる。 「おびえてるじゃねえか……。なあ、お嬢ちゃんたち。おじさんたちは、これからここでいろいろ洗濯しなくちゃいけないんだ。いい子だから、どっかいってくれるか?」  満面の笑顔が、かえって怖い。 「べつにおじさんたちの洗濯ぐらい、わたしたちがここで見てたって」  わたしはユッキーの口を押さえた。  もがー、とわめくユッキーを引きずり、さきほどの花壇の裏までゆく。身を伏せた。 「なにするのよー、きーちゃん!」 「相手を見てモノをしゃべれ! あの車にあの格好、どこをどうみたってヤクザでしょ!」  ——ヤクザ。  ふいに、あの子供たちの言葉を思いだす。  犹守望は、ヤクザをぶっとばした……。 「まさか」 「きーちゃん!」  ユッキーの声に、コインランドリーを見る。  すでに男たちは店のなかに入っていた。 「てめえ、な、なんつう格好でいやがる! ズボンはけ、ズボン!」  声が大きいものだから、こちらにまで届く。 「……なにィ! あなただれだと! ふざけんじゃねえ、忘れたとはいわせねえぞ! おれたちの組をメチャクチャにしやがったくせに……うおおおお、もう、覚えていようがいまいがかまわねえ、そのタマ、とったるわー!」 「まずい……!」  わたしは携帯電話をとりだした。番号を押す。  一、一、○。  最後のゼロを押した瞬間、コインランドリーのガラスが割れた。  まにあわなかった!?  そう思って見あげたとたん、前方の地面に、ガラスの破片をまとった男が落ちてくる。ぐちゃ、と鈍い音をあげた。  スカジャンを着た男は、白目を剥《む》いて、口から舌をべろんとだしている。  し、死んでる? 「見て、きーちゃん、ほら!」  ユッキーの声に顔をあげると、粉々に砕けたガラス窓から、犹守《えぞもり》望《のぞむ》がぴょん、と飛びだすところだった。その下半身は、まだ水色ぱんつ一枚のままだ。 「待て!」  男たちが追いかけてくる。ぐるりと犹守望のまわりを囲んだ。  とはいえ、彼女はべつに逃げるつもりもないようだ。残り五人となった男たちを相手に、まったくおびえた様子がない。  くわぁぁぁ、とあくびをした。 「うああああ!」 「い、いくな!」  白スーツの男の制止も聞かず、ほかの男たちが飛びこむ。  犹守望はジャンプした。  男たちの手が触れる直前だったので、彼らは互いにぶつかってしまう。よろめいた男の頭の上に——足をたたんだ犹守望が、降りた。  そのまま犹守望は、素足を伸ばす。  ぐちゃ、と男は顔面から地面にめりこんだ。  あっけに取られているほかの男たちに、銀髪の少女は順次、拳《こぶし》を、蹴《け》りを、叩《たた》きこんでいった。あるものは一回転し、あるものはエビのようにくの字になって飛んでゆき、あるものはコマのように回る。  残されたのは、白スーツの男、ただひとり。 「——!」  声にならない、とはこのことなのだろう。男は眼《め》を剥《む》いて、口をぱくぱくさせていた。  うう、とスーツの内側に手を差し入れる。 「おお、おまえが……悪いんだからな!」  男の手には、黒いものが握られていた。  ピストルだ。  じつに現実感がない話である。  そんなものが、本当に、こんな商店街の外れに、存在するなんて。  いや、ヤクザなんだから持っていたっておかしくはないのだけど、でも、そんな、嘘《うそ》、まさか、信じられない——。 「お、おまえ!?」  犹守《えぞもり》望《のぞむ》は、平気な顔で、一歩、男に近づいていた。  さらに一歩。もう一歩。いきなり三歩。と思ったら二歩さがった。え? 遊んでる? 「こ、これが偽物だとでも思ってんのか! 本物だぞ! 当たれば死ぬんだぞ!」  銃を構える男の手は、がたがたと震えていた。 「そっちも死ぬかも」 「な、なに?」  犹守望の言葉に、ぴたりと男の震えが収まる。 「これが当たれば、死んじゃうかも」  そういって、彼女は握《にぎ》り拳《こぶし》を見せた。  一見、華奢《きゃしゃ》な、殴れば逆に壊れそうな拳に映る。だがその威力は、いま地べたに横たわっている男たちで実証済みだ。 「こんどは、本気でいくから」  ——いままでのは、本気じゃなかったのだろうか。  犹守望は男に近づく。まるで銃なんか見えていないかのように。  いったんは収まった男の震えが、またひどくなった。ぐらぐらぐらぐらと銃が動きまくる。あれでは、おそらく撃ったとしても当たらないだろう。 「くるな……くるなー!」  犹守望はゆく。  ついに、男のすぐそばに立った。  銃口が、彼女の眉間《みけん》にぴたりとくっつく。 「……」  男は白目を剥《む》いていた。  あんぐりと開いた口からは、よだれがだらだらと垂れている。  犹守望がちょん、と指先でつっつくと、くたくたとその場に崩れ落ちた。ああ、ああ……とうめきながら、震える。  しばらく彼女は見おろしていたが、やがて、その手からピストルを奪うと、ぽいと捨て、コインランドリーのなかに戻っていった。 「すごいすごーい!」 「ホントにすごい……」  わたしたちも我に返って、声をあげた。  目の前の道路には、男たちがぴくぴく震えながら倒れている。そしてそれをやったのは、いま割れたガラス窓の向こうに見える、銀髪の少女——上はジャージ、下はぱんつ一枚——なのだ。  ぶー。  ブザーが鳴った。どうやら洗濯は終わったようだ。こんどは乾燥機に放りこんでいる。  また犹守《えぞもり》望《のぞむ》は食べだした。すでに食べ物はあまり残っていない。 「すんごいの撮れちゃった……これ、最高傑作だよ、きーちゃん」 「それはそうでしょうよ……こんなの、マンガか映画の世界だもの」  ぶー。  乾燥も終わった。  犹守望は、洗いたて、乾かしたてのジャージをはいて、コインランドリーからでてくる。わたしたちは後を追った。ちらちらと、背後の道路に横たわるヤクザたちと、彼らが乗ってきた車を見ながら。 「いちおう警察、呼んだほうがいいのかな……」 「ほら、きーちゃん……やっぱりすごいよ、これ」  ユッキーは歩きながらビデオを再生していた。  わたしは自転車を押しながら、それを覗《のぞ》きこむ。コインランドリー窓ガラスを、チンピラがその身をもって突きやぶっていた。  ビデオカメラの小さな液晶に映る、ヤクザをぶっとばしている少女と、いま遠くを歩いている少女の後ろ姿が、どうも結びつかない。  だって、いま商店街へと戻っている犹守望の背中は、ちっとも大きくないもの。  むしろ小さい。背丈だって普通だし、体格はやせ形だ。胸だって……まあ、こちらは人のことはいえないけれど。  なのに、あんな……。 「やっぱり犹守さん、いいなあ。お友達に、なりたいなあ……」  ビデオを見ながら、ユッキーがうっとりした声をあげた。 「……ねえ、ユッキー」 「なあに、きーちゃん」 「まさかとは思うんだけど。もしかして、わたしのことも……不思議少女とか、思ってるわけ?」 「ん? んん……」  あはは、と笑いだす。 「やだなあ、きーちゃん。そんなこと、あるわけないよ?」  じゃあどうして、いま動揺した!?  そうか、そうだったのか。わ、わたしも……。  落ちこみかけたそのとき——。  悲鳴があがった。 「だれか、だれかー!」  頭にパーマをかけた、すこし太めの、年のころといえばわたしの母親ぐらいな女性——つまりおばさんが、倒れ、手を伸ばしていた。  その先には、遠ざかるスクーターがあった。  ふたり乗りで、後ろの男の手には——ハンドバッグ。 「きーちゃん!」 「うん!」  ひったくり、という言葉が浮かぶが早いか、わたしは自転車にまたがっていた。  ペダルを踏むと同時に、後ろにどすんと乗る感触がある。腰を浮かせ、思いきりペダルを踏みしめた。全力で回転させる。  前をゆく銀髪の少女は、すでに追いかけていた。  あの四つんばい走法だ。口に洗濯物が入った袋をくわえ、四本足で地面を跳ねるようにしながら駆けてゆく。  彼女とスクーターの距離が、みるみる縮んでいった。  逆にこちらは、みるみる離されていった。 「あーん、きーちゃん、がんばって! どんどん犹守《えぞもり》さん、小さくなっていっちゃう!」 「——この期に! およんで! ——犹守、さんって! ——ひったくり、追いかけて、いるんじゃ、なかったのー!」  ふぎぎぎぎ。  わたしはペダルをぶん回す。  もともと、自転車でバイクを追おうというのが無理な話なのだ。なんとなく、ついいきおいで走りだしてしまったが……。  ——あ、しめた。  前をゆくふたりが、道を曲がる。  その先には、長々と下り坂があった。ふたりぶんの体重でくだりながら、わたしはここぞとばかりにペダルをこぐ。すこしずつ……ほんのすこしずつだけど、犹守《えぞもり》望《のぞむ》との距離が近づいてきた。もちろん、スクーターとの距離も。 「がんばれ、がんばれ、きーちゃん、ファイト!」 「うぬぬぬぬ……ぬ?」 「あれ?」 「あ……あー!」  重力が、なくなった。  段差に乗りあげたのだと気づいたのは、天地が逆さになった瞬間だ。  わたしたちは、宙を舞っていた。 「わー!」 「ぎゃー!」  すべてがスローモーションだった。  空はやたら黒いし、地面は青い……のは、そうか、上下が反対だからか。  ああ……死んだな。  ぐるんぐるんと回転しながら、ゆっくりと迫りくる道路を見ながら、ああ、彼氏が欲しかったな……とわたしは思う。  白馬に乗った、王子さま……。  なぜか、小山田耕太の顔が浮かんだ。 「ふ、ふざけ——」  ちずるさーん、と情けない声をあげる男に、罵声《ばせい》を浴びせようとした瞬間。  がくん、と引っぱりあげられた。  え? とまぶたを開ける。そのときになって、自分が眼《め》を固く閉じていたことに気づいた。じゃあ、さっきのは——エロス大王は、幻覚?  おそるおそる、顔をあげる。  犹守《えぞもり》望《のぞむ》が、いた。  おなじ人間とはとても思えないほど美しい、白い肌と銀色の髪。瞳《ひとみ》は髪とおなじく銀色で、鼻はやや低めながらもとおっている。唇の色は、彼女のあの胸のふくらみの先端を思わせるほど、薄い色彩だった。  こんなに間近で彼女の顔を見たのは、初めてだ。  犹守望は、片手でわたしの腰を抱えて、持ちあげていた。  真横を見ると、もう片手で、ユッキーを抱えていた。 「わあ……犹守さんだ……」  目の前にいるというのに、ユッキーはビデオカメラで彼女を撮りだした。  ぎろり。  犹守望の眼が、鋭くなる。わたしたちはびくついた。  そこは、民家のブロック塀に囲まれた、路地裏だった。  バイクのヘルメットをすっぽりとかぶった男ふたりが、なにやら小声で会話している。その横には、スクーターが停《と》まっていた。 「うわ……千円札しかねーよ」 「最近のババアはしけてんな」  彼らはハンドバッグをひっくり返して、中身を地面にぶちまけていた。靴の先で転がす。 「しかし……あの追いかけてきたやつ、なんだったんだ?」 「知らねーよ。正義の味方をきどった、バカだろ?」 「でも……あいつ、犬か猫みたいに、四本足で走っていたような」 「んなわけねーだろ。なんだ、アレか、ターボばばあか」 「いや。若い女だった。髪は銀色で……外国人かも」 「おまえは洋物が好きだからなあ……」  低く笑い声をあげる男。もうひとりも、つられるようにして笑った。  そこに、さらにもうひとつ笑い声が重なる。  ふっふっふ……。  落ちついた少女の声に、男ふたりはびくつき、あたりを見回した。 「だ、だれだ!」  ぴょん、と笑い声の主が、ブロック塀の上に立った。 「お、おまえは……」  男たちが見あげた先には、銀髪のジャージ少女がいた。 「正義の味方」  いきなり少女は男を蹴《け》り飛ばした。  塀の上からヘルメットを蹴られて、男は腰を軸にして横回転を見せる。ぐるぐる回転したまま、真横のスクーターに激突した。  もうひとりも……降りたった少女に、グーで殴られ、すねをこつんこつんとつま先で蹴られ、と思ったら仰向けで肩にかつぎあげられ、首と太ももをつかんでゆっさゆっさと揺すられ、最後には泣きながら、もうかんべんしてください、生まれてきてすみませんと謝るまで、痛めつけられた。 「わー、すごーい! アルゼンチン・バックブリーカーだー! ほら、大技だよ、あれ」  ユッキーが解説してくれる。どうやらそういう技らしい。  わたしたちは、塀の向こう側から、犹守《えぞもり》望《のぞむ》を撮影させられていた。 「犹守さん、あの、もう、そのくらいで……死んじゃうから」  うん? と男をかついだまま、犹守望は首を傾《かし》げた。  どさ、と男を落とす。男はびくびくと震えていた。いっぽう、スクーターにぶつかって絡まっている男は、ぴくともしない。 「犹守さーん、勝利のポーズ!」  ユッキーはカメラを構えたまま、Vサインをだした。  それに従うまま、犹守望も、カメラに向かって二本指を突きだす。ぶいっ。  こうして、犹守望の密着取材あらため、ビデオクリップ撮影は、無事に終わりを告げたのであった。      5 「——けっきょく、最初っから犹守さんにはバレていたわけね」 「そうそう。学校でわたしが犹守さんを撮影していたときから、ぜーんぶ気づいてたんだって。わたしがんばったのにな……カバンとかにカメラ隠してさー……」  わたしたちはいま、学校の裏庭にいた。  狂瀾《きょうらん》怒涛《どとう》の週末を終え、今日は月曜日。放課後になったばかりのせいか、まわりに人影はまったくない。校舎と、学校の敷地を囲むフェンスがあるばかりだ。フェンス近くに生えている木々も、真冬の空っ風にさらされ、葉のひとつも生やしてはいなかった。  わたしは制服にコート姿のユッキーが持つ、ビデオカメラを見る。 「ま、バレないほうがおかしいとは思ったけど」 「きーちゃんはぜんぜん気づいてなかったじゃない。着替えするとこ、しっかり撮っちゃったんだからねーだ」 「アレ、消しなさいよ」 「えー、どーしよっかなー」 「ユッキー……きさま……」  ゆらりと動いたわたしに、ユッキーが、あ! と声をあげる。 「きた、きた、小山田くん、きたよ!」  ビデオカメラを構えた。  その先には、エロス大王——小山田耕太がいた。その横にはいつものように、源《みなもと》ちずるの姿もある。小山田耕太はカメラのレンズにびくつき、源ちずるはふん、と胸を張った。 「うわー……なんか怒ってるよ、源センパイ……またあぶらげ食わせられるかなあ」 「ユッキー、あなた、なんていって大王を呼びだしたのよ」 「うん? 放課後、お話があるから校舎の裏まできてくださいって」 「……おバカ」  そりゃ勘違いされるだろう。  源《みなもと》ちずるは、これみよがしに小山田耕太に腕を絡めながら、にこにこと満面の笑みを浮かべていた。おそらくマンガなら、こめかみのあたりにさらに、怒りをあらわす血管マークが浮いていることだろう。  あの、高菜《たかな》さん、佐々森《ささもり》さん、といいかけた小山田耕太に、源ちずるが声をかぶせた。 「耕太くんに、いったいどんなご用なのかしらー?」  その笑顔には、『こりないヤツらだなコノヤロウ』と書かれてあった。 「用があるのはわたしたちじゃなくて……」 「犹守《えぞもり》さーん! 小山田くん、きーたよー!」  ユッキーの声に、犹守《えぞもり》望《のぞむ》がフェンスの陰から、文字どおり跳んできた。  くるくると回転しながら、小山田耕太と源ちずるの前に降りたつ。どちらも息を呑《の》んだ。  犹守望は——青いドレス姿だった。  襟元を大きく開いて、肩のラインを覗《のぞ》かせるデザインで、胸元には大きなリボンがあしらってある。腰はきゅっとしまり、スカートはゆったりと広がっていた。彼女の華奢《きゃしゃ》な体格に、じつによく似合っていた——ここが真冬の、それも校舎裏でさえなければ。  わたしは肘《ひじ》でユッキーをつく。  私服を持ってない犹守望に、服をレンタルしたのは彼女だった。 「ちょっと……もうすこし、普通の服はなかったの?」 「えー、これ、パパに買ってもらったドレスで、けっこう高いんだよー?」 「高いとか、そういうことじゃなくって……パーティードレスをこんなとこで着たら、なにをどう考えたってヘンでしょーが」 「犹守さんなら、なにを着たってキレイだよ」  わたしはドレス姿の犹守望を見る。  彼女は、しずしずと小山田耕太のとなりに並んでいた。銀髪の後ろにも結んでいたリボンが、揺れる。 「……まあ、そうかもしれないけど」 「さあ、犹守さん、きゅー!」  ビデオカメラを構えたユッキーは、親指と人さし指で丸を作った。  犹守望はレンズに向き直る。 「——兄さま」  彼女は、スカートをつまんで、軽く持ちあげた。 「見てのとおり、わたしはこっちで、しっかりやってるよ。トモダチはできたし、街のひともやさしくしてくれるし、ワルモノもちゃんといぢめてる。それに……」  真横の小山田耕太のほうを向いた。 「耕太のアイジンだって……」  小山田耕太の頬《ほお》に、そっと唇を近づける。  ちゅっ。 「……がんばってる、から」  ユッキーはきゃー、とかん高い声をあげた。わたしも思わず微笑《ほほえ》んでしまう。源《みなもと》ちずるは笑っているどころではないらしく、小山田耕太ごしに犹守《えぞもり》望《のぞむ》に手を伸ばしていた。  そのとき、北風が吹いた。  ひゅるりりり。 「あ」  声をあげたのは、ユッキーとわたしと、源ちずる。  見えたのは、するんとした小ぶりなお尻《しり》。  まくれあがったのは、犹守望のドレス。  彼女は、なぜか下着をはいていなかった。そのため、青い果実という形容がぴったりな小さなお尻と、太もものあたりまである長いソックスをはいた、細い脚があらわになってしまっていた。  すべてを正面から見届けたであろう小山田耕太が、がくりと屈《かが》みこむ。  鼻のあたりを押さえた手から、ぽた、ぽたと鮮血がしたたっていた。 「……ユッキー」 「わ、わたしじゃないよ! わたしはドレスを貸しただけだよ!」 「——望! あなた、なに考えてるのよ!」  わたしたちの疑問を、源ちずるが代弁した。  犹守望は首を傾《かし》げる。 「んー? ふつう、下着、はかないって……」 「それは着物の場合だ! というか、着物だっていまは下着をはくでしょーが!」  きー、と声をあげ、源ちずるはスカートのなかに手を差し入れた。 「ま、負けないんだから!」  なんのためらいもなく、脱ぐ——黄色い水着を。  そして小山田耕太にスカートをかぶせた。ほがほがとスカートのなかがうごめく。 「……なんで源センパイ、水着を下着にしてるんだろね」 「さあ。エロス時空にいる人たちの考えは、常人にはわからないわ。わかりたくないし」  でも、ドレス姿の彼女は——。  犹守望は、とても楽しそうに笑っていた。 「……あんな顔、取材中にはしてなかった」 「そうだね……やっぱり犹守さんは、小山田くんのアイジンなんだね!」 「いや、それはちょっと違う気がするけど」  ユッキーのビデオカメラは、水着を指先に引っかけてくるくる回している源《みなもと》ちずると、自分もスカートを小山田耕太にかぶせた犹守《えぞもり》望《のぞむ》の、激しいぶつかりあいを収めていた。あいだにいるらしいエロス大王は、ふたりのスカートのなかをほがほがとうごめいている。 「まあ、でも……めでたし、めでたし、かな?」  犹守望の唇は、うっすらと笑顔のかたちに曲がっているから。      6 「——なにをやってるんだかな、あいつらは」  銀髪の男が、つぶやきをもらした。  彼は、黒い革のライダースジャケットにそのたくましい身体を包んでいた。髪の毛とおなじ銀色の眼《め》で、モニターに映る青いドレス姿の少女を見つめている。  モニターの下には、ゲーム機が置いてあった。  男は、ゲームショップの外に備えつけの試遊台の前にいる。普段はゲームを動かしているはずの機械で、彼はDVDを再生していた。通りに面した店なので、まわりをゆく通行人がじろじろと眺めたりするが、男に気にした様子はまったくない。  最後に『制作 総指揮 佐々森《ささもり》ユウキ 協力 高菜《たかな》キリコ』と映して、映像は終わった。 「なかなかいいトモダチが、できたじゃないか……望」  男の口元には笑みが浮かんでいる。  ゲーム機のボタンを押して、なかからディスクを取りだした。 「よし、もういいぞ、ボウズたち。悪かったな、占領してしまって」  元々入っていただろうゲームのディスクを戻して、遠巻きに見ていた子供たちに話しかける。おっと、と視線を真横に落とした。 「お孫さんのところだけでも、もういちど観《み》ますか?」  男のとなりには、小柄な老人が並んでいた。  見事なまでの白髪を、老人は後ろでひとつに束ねている。年輪を感じさせる皺《しわ》の入った顔に、サングラスをかけていた。肌の色つやはよく、背筋はしゃっきり伸びて、おまけにとなりの大柄な男とおなじ、革のライダース姿だった。 「くだらんことをいうな」  吐きすてるように老人はいった。 「もはや耕太は、わしの元を巣立った。独り立ちした孫の姿に一喜一憂するほど、わしはボンクラではない。おぬしとは違うのだ、朔《さく》よ」 「はいはい……妹煩悩で、悪うございました」  男はDVDのディスクを、足元に置いてあった、やたらと使いこまれている革の袋に放りこんだ。かわりになかから手紙を取りだし、その袋の横にちょこんと座っていた柴犬《しばいぬ》の首に、ゆわえる。 「悪いな……こんどはこっちからの手紙だ。ビデオレターなんてシャレたもんじゃないが、頼む」  わん、と一声|吠《ほ》えて、柴犬《しばいぬ》は駆けていった。 「さて……いくとしますか、ご老人」  姿が見えなくなるまで犬を見送って、朔《さく》と呼ばれた男は歩きだす。  道ばたに、大きなバイクが停《と》めてあった。朔はその巨大な鉄のフレームにまたがり、老人はその後ろに、ひょいっと飛び乗る。  ひとうなりして、エンジンがかかった。 「つぎはどこです!」  どん、どん、どん……エンジンからの重低音が、あたりを響かせている。朔の声はそれに負けないよう、大きかった。 「……街の外れに、岬がある。そこに水神を祭った神社があってな」  老人の声に変化はなかったが、不思議とよくとおった。 「へえ? こんどはそいつが相手か!」  朔は首筋にぶらさげていたゴーグルを、しっかりと目元にかけた。  アクセルをひねる。二度、三度とバイクにうなり声をあげさせた。 「油断するでないぞ。いちおうは神の名を持つものだ。妖《あやかし》の位からいえば、人狼《じんろう》などよりはるかに上よ」 「神だって? 上等だ! それぐらいのやつを簡単にしとめられるようじゃなきゃ……あんたのお孫さんには勝てやしないからな!」  朔はアクセルをひねりながら、左手のレバーを離した。  激しく後輪が空転する。数秒後、あたりに焦げ臭い匂《にお》いをまき散らして、バイクは飛びだした。  ウィリーしながらしばらく走り、やがて、どすん、と前輪をつく。 「……おぬし、まだあの女狐《めぎつね》をあきらめておらんかったのか?」 「ははっ! あなたもちずるを女狐呼ばわりとは……耕太との関係、認めてませんね?」  ふん、と老人は苦《にが》そうに口元を引きのばした。  朔は高笑いをあげながら、アクセルをふかす。バイクはどんどん加速していった。 ひとやすみ、ひとやすみ 〜お食事のそのあとで 一〜  薫風《くんぷう》高校、学生寮。  学校から徒歩五分の場所にある、築三十年のアパートをそのまんま使用した建物。  その一室、小山田《おやまだ》耕太《こうた》の住む部屋のドアが、やたらいきおいよく開けられた。 「こーぉーたぁーくぅーん!」  開けたのは、薫風高校のブレザーの制服を着た女性だ。  長い長い黒髪が、夕陽《ゆうひ》の逆光をまとって、縁をオレンジに染めている。手にはスーパーのビニール袋をさげていた。袋の口からネギの頭が飛びだしている。  その表情は、一分の隙《すき》もない、完《かん》っ璧《ぺき》な笑顔。  源《みなもと》ちずる、その人であった。 「——ん?」  弧を描いた細い眉《まゆ》、猫のように細めた眼《め》、かたちのよい鼻、白い歯を覗《のぞ》かせた唇——そんなちずるの笑みが、すぱっと変わった。眼をしばたたかせる。  素の表情になった彼女の背から入りこむのは、冷たい外気と、夕陽の赤。  開けはなたれたままの扉からの赤い光によって、彼女の影は長々と伸びていた。影は六畳ひと間の部屋の、その真ん中に置かれた小さな折りたたみ式のテーブルに、その姿をくっきりと落としている。  テーブルには、少年が突っ伏していた。  ちずるとおなじくブレザーの制服を着たままの少年——小山田耕太が、静かに寝息をたてている。窓際のファンヒーターが温風を吹きだしていた。  ちずるは小さく首を曲げる。  耕太にかかっている影もかたちを曲げた。しばらくそうやって耕太を眺めてから、指先に引っかけていた鍵《かぎ》をくるんと回し、ぱしっとつかむ。  部屋の合い鍵を制服のポケットにしまいながら、玄関のなかに入った。  そっとドアを閉め、靴を脱ぐ。  玄関の真横にある、小さな台所に向かった。足音もたてずに移動して、スーパーの買い物袋を、洗い場の上に置く。かさ、とビニール袋が鳴った。  ちずるはそろそろと耕太に近づく。畳がかすかにきしんだ。  腰に手を当て、じっと耕太を見おろす。  ぐぐっと屈《かが》み、横から寝顔を覗きこんだ。頭がさがったために、髪がちずるの背から滑り落ちる。耕太にかかる寸前で、ぱっと彼女はその長い髪を手で押さえた。  うん、うん。  髪を手で押さえたまま、ちずるは二度、うなずく。  耕太の顔のすぐそば、いまにも唇が触れそうな位置で、にこりと微笑《ほほえ》んだ。うう……。耕太の寝顔が、かすかにゆがんだ。  ふわあ……。  ファンヒーターの静かな吐息を感じながら、耕太は目覚めた。  目覚めてまずは、やっぱりあくびだ。布団[#「布団」に傍点]から手をだし、口に手を当てる。  ああ、寝ちゃったんだ。耕太は暗い天井を見て思った。昨日は夜更かししちゃったからなあ……。本がおもしろくて……なんだっけ、えーと、カルナの……青葉くん……ゴーレム……いろいろ……。  いま、何時だろうと時計を探す。  枕元《まくらもと》に置いてあるはずの目覚まし時計が……ない。  えっと、と机の上に視線をやろうとして、はたと気づいた。  シーツからでている自分の腕が、肩が、胸までも——素肌をさらしていることに。  あれれ?  ぼく、どうしてなにも着てないんだろ……裸なんだろ? 耕太はぺたぺたと自分の身体を触った。下まではいてない。いつもはジャージ姿で寝ている。おまけにいまは冬だ。ヘンな健康法にも目覚めてはいない。だからして、すっぱだかなわけはない。  っていうか、ぼく、そもそも布団に寝ていたっけ?  あれ、あれれー? なんか、前にもこんなシチュエーションがあったようなー? 「——まさか」  耕太はばっと身体を起こす。真横を見おろした。  いきおいよく起きあがったために、掛け布団やタオルケットはまくれあがっている。  そのためにあらわとなった敷き布団の上には、薄闇《うすやみ》のなかでもあざやかに白い、すべらかな肌があった。  女性でしかありえない、やわらかな曲線——それも、あるべきところには大いにあり、ないべきところはきゅきゅっと締まった、至高のラインを持った身体が、寝ている。  ふよよよーん、な胸。  すきゅきゅっ、な腰。  ぬちちーん、なお尻《しり》。  そして背中に広がった、豊かな髪。  そんな身体が……なんども耕太が見て、それでも見慣れない肉体が、身じろぎする。 「ん、んん……」  薄目を開けた。  長いまつ毛が、ぱちぱちと上下する。瞳《ひとみ》が左右に動き、耕太を捉《とら》えた。  唇が、にこりと微笑《ほほえ》む。 「おはよう……耕太くん」  口をあんぐり開けたまま答えられない耕太の前で、彼女は、自分自身のあられもない姿を確認した。身体を動かしたせいで、いろんな部分が耕太のまのあたりになる。ばよえーんが。かたちのよいおへそが。ふささ……が。  やぁん。  彼女は胸を両腕で覆《おお》った。隠しきれず、細い腕の上下から、豊穣《ほうじょう》たるふくらみが覗いた。 「ち、ち、ちー」  どもる耕太。うん? と彼女が見あげる。  耕太は、ぷは、といったん息をはいた。ひゅー、と吸いこむ。んぎ、と止まった。 「——ちずるさん! いったいなにをやってるんですか!」 「なにって……やだ、耕太くん……覚えてないの?」 「え」  恥じらうちずるに、耕太は言葉を失った。 「お、おお、覚えてないのって……」  ま、まさか。 「さっきはあんなに激しく……やだ、もう」  頬《ほお》に手を当て、ちずるがくねくねと身をよじる。耕太の頬は引きつった。 「さっき? あんなに? 激しく? ええ? そ、そんな……うええー?」  身に覚えがない。もちろん心にも覚えがなかった。  思わず耕太は布団のなかに手を入れ、もぞりと探ってみる。痕跡《こんせき》らしきものはない……と感じた。だが、いやしかし。我がことながら信じきれない部分はないでもなかった。  だってだって、最近またちずるの攻撃カッコ性的カッコ閉じるがパワーアップしてきて、すごいんだもん! 激しすぎるんだもん! あやういんだもん!  ふふ……。  ちずるが笑った。  勝利者の笑みだと、耕太は感じた。ナニに勝ったのかは知りたくない。  笑いながら、ちずるは身体を起こす。そのまま立ちあがった。腰のくびれとお尻《しり》のふくらみが、耕太の目の前にどでんとあらわれる。  うーん、とちずるが背伸びをした。  そのため、かすかに肋骨《ろっこつ》が浮きあがった。なぜか耕太は、お尻や太ももよりも、脇腹《わきばら》の段々なくぼみにどきっとなってしまった。その事実にたじろぎ、うつむく。  ぼく、やっぱり、どんどんえっちに……それもかなりヘンな方向に……。 「じゃ、お着替えしよーっと」  え? と耕太は顔をあげた。 「なーに、耕太くん……このままのほうがいーい?」 「いや! そんなことは!」  ぶんぶんぶぶん。  腰からお尻《しり》をするんと撫《な》でたちずるに、耕太は首と手を激しく振って答えた。  まさか、ちずるが自分から服を着るといいだすとは。いつも耕太は、裸となったちずるに服を着てもらうのに、とてもとても苦労していたのだ。  信じられない思いで見つめる耕太の前で、ちずるが取りだしたのは——。 「や?」  紺色の布地だった。  あれは、もしかして……。  ちずるはその布地に足を通す。股間《こかん》のあたりに、白い裏布があった。両足を通し、ぐいと引っぱりあげる。へそを隠し、たわわわわ〜んな両胸を納めて、肩ひもに腕を入れた。お尻に食いこんだ布や、胸の位置、肩ひもを直し、髪を後ろに流して、完成させる。  できあがったのは、スクール水着姿のちずるだ。  え? スクール水着? 「な、なんで? なんでなんですか? その格好……」 「えー、耕太くん、こういうの、キライ?」  ちずるは腕を背中で組んだ姿勢で、首を傾《かし》げながら問いかけてきた。 「好きとか嫌いとか、あの、そーゆーことではなく、どーして着替える服が、スクール」 「キライなんだ……。だったら、脱ごうっと」  肩ひもを外す。  ちょっと待った!  耕太は手で制した。 「いや、その、裸でいられるよりは、まだ」 「じゃあ好き? スクール水着、好き?」  耕太はうなだれた。うなずくよりほか、しかたがなかった。  とんとんとん……小気味のいいリズムが室内に響く。  包丁がまな板を叩《たた》く音だった。みそ汁の香りもただよってきている。  本来ならば、耕太はうっとりとするところだった。耕太は父も母も知らない。ずっと祖父に育てられてきた。そのためか、多少……いや、けっこう? マザコンの気があるような自覚はないでもなかった。  だから、こういう場面には弱いのだ、本来ならば。  思う存分にひたれないのには、理由があった。  折りたたみ式の小さなテーブルの前に正座しながら——布団はさっきたたんで押し入れにしまった——ジャージにだって着替えた——耕太は、ちらりと視線を台所に向ける。  ちずるが包丁をふるっていた。  正直、昔はあまり料理が上手ではないようだったが、毎日耕太にお弁当を手作りしていることもあってか、最近はかなり食べられるようになっていた。  つまり、問題は味ではない。  問題は、その姿にあった。  むきゅっとしたお尻《しり》。その張りが、紺色のきめ細かい布地に包まれている。  髪は頭の後ろでまとめて、ポニーテールのかたちにしていた。そして腰には、紐《ひも》が蝶々《ちょうちょう》結びされている。  エプロンの紐である。  つまり、スクール水着にエプロンという、ある意味どうしようもない姿に、彼女はなっていた。ちずるはいう。 『だってぇ、耕太くん、生まれたままの姿はダメなんでしょう? 下着だってダメ……じゃあ、これならオッケーだよね? だって水着は外で普通に着れるもんね!』  だからってスク水エプロンはどうだろう。  ふんふんふん……。耕太は、鼻歌を歌いながら料理を続けるちずるの背を、眺めた。  学校で着用する水着のため、肌の露出はすくない。首筋から肩胛骨《けんこうこつ》までが、やや広めに覗《のぞ》けるだけだ。  が、しかし。だがしかし。  やたらと水着はくいこんでいた。身体のラインがむっちりむちむちだ。  おそらくはサイズがひとまわり小さいのだろう。とくに太もものつけ根の部分がくいこみ——お尻がそのかたちをはっきりとさせていること、はなはだしい。そのむちっとぶりは、正月に寮のお風呂場《ふろば》で見たときよりも、かなり激しかった。  わざと小さいのをはいているのか……それとも、前にちずるがいったように、耕太がいろいろえろえろしたために、成長してしまったのか。  思わず、食い入るように見てしまう。  ぱんっと張りつめたお尻が——くいこみが——一本の線が——。  ごきゅりと喉《のど》が鳴った。残念ながら、ごはんのいい香りが原因ではなかった。 「はーい、耕太くん、できたよー」  ちずるが笑顔で振り返る。 「は、はい!」  正座し直した耕太の前に、皿が置かれた。  ぷうん、とソースの甘辛い匂《にお》いが香る。きっとぼくは幸せなんだろうな、と耕太はコロッケとてんこもりのキャベツの千切りがのった皿を見て、思った。 「ごちそうさまでした!」  耕太は手をあわせて、空になった茶碗《ちゃわん》とお椀《わん》とお皿に向かって、頭をさげた。  正面に座るちずるを見る。テーブルを挟んだ真向かいで、彼女はにこにこと笑っていた。 「どういたしまして。まあ、といっても、コロッケはスーパーのお総菜コーナーで買ったものだし、わたしはキャベツを刻んで、おみそ汁を作っただけなんだけど、ね」 「いや、いや! あぶらげと大根のおみそ汁、とてもおいしかったです!」 「ふふ、ありがと、耕太くん」  うふふ。えへへ。ふたり見つめあい、しばし微笑《ほほえ》みあう。 「さて、と……」  ちずるはテーブルに手をつき、腰を浮かせた。 「あ、片づけならぼくが!」 「ううん。後片づけまでがお料理だもの。耕太くんが汚したお皿だと思うと、わたし、ちっとも洗うの嫌じゃないし。それに……」  膝立《ひざだ》ちになって、するりとテーブルを回りこんできた。 「まだ片づけには早いから。だって、ほら、デザートがまだじゃない?」 「え、デザート? そんなものまで買ってくれたんですか? そんな、悪いですよ。ぼく、いつもちずるさんにお金、使わせてしまって……あの、ちゃんとおじいちゃんから仕送り、もらってますから、だからちずるさんに、せ、生活費じゃないですけど、渡します」 「ふふ……まるでわたしたち、同棲《どうせい》してるみたいだね」  ドーセイ。  どきん、と胸が高鳴った。息が止まった。 「まあ、その話はあとにして……はい、デザート、あげる」  膝立《ひざだ》ちのままちずるは耕太の前に立ち——そのためにじつに窮屈《きゅうくつ》そうな胸のふたつのふくらみが、エプロンごしに目の前にそびえた。  ちずるは手を背中にまわす。エプロンがしゅるりと脱げ落ちた。  水着の肩ひもに指先をかける。  両方、一気に外した。押しさげる。両胸が、その締めつけから解放された。  ばろ〜む、わん。  たとえでなく、それは飛びだした。そして揺れた。ばるん、ばるん、ばるるんるん。 「どうぞ、デザートめしあがれ……」  両手で胸を下から押しあげ、ゆたんと揺らし、ちずるはにぃっと眼《め》を細める。  ん。あ。お。  耕太はかたことでしか言葉を発せられない。ひう、といびつな声をあげた。 「——ち、ちずるさん、なにがどうして、いったいぜんたい!」 「おなかがくちくなったら、つぎはこれでしょ? ほら、ニンゲンの三大欲っていうじゃない? 睡眠欲、食欲、そして……性欲って」  セーヨク。  つん、と鼻の奥が痛くなった。なにかを噴きだしそうになった。 「ほら耕太くん、がまんしなくたって、いいんだよ……? わたしたちはもう将来を誓いあった仲なんだし、さっきだっておたがいケモノのよーに……きゃっ」  いやんいやん、と身体を振る。  ほやんほややん、と剥《む》きだしの乳が揺れまくった。 「さ、さっきっていえば……そうだ! ぼく、たしかにテーブルに寝てしまっていたはずなのに、目覚めたら布団のなかで、おまけに裸で、ちずるさんは横に寝ていて……なんかやっぱり、いろいろおかしいと思んですけどっ」 「えー、耕太くん……わたしのこと、うたがっているの?」  胸をさらしたまま、ちずるは哀《かな》しげに眉《まゆ》をハの字にした。 「や……その……」  ちずるのこういう表情に、耕太はとても弱い。  しかし、このせつなげな表情になんどもだまされてきたことも事実だった。いろんなことをうやむやにされ、エロんな……もとい、いろんなことをされそうになった。 「ち、ちずるさんっ、ぼくは、ぼくは——」 「ああん、耕太くぅん!」  眼前にふたつの重たげな果実が迫る。耕太はぬはーっ、と声をあげた。  だぅん。  めりこんだ。胸に、顔が。  耕太は、飛びこんできたちずるに、押し倒された。  こうきたか。  畳に打ちつけられながら耕太は思った。力業できたか!  大の字になった耕太の上に、ちずるの温かくもやわらかい身体が、じんわりと重みをかけてくる。口元にはふたつの山岳がこんもりとのっていた。おかげで息ができない。ぶるる、と顔を振って、呼吸ルートを確保した。 「……ちずるさん。ダメですよ。ぼく、ちずるさんが大切だから、だから、こんな……欲望のままに、汚してしまうなんて……いやなんです」 「ごめんね」  沈んだ声が返ってきた。うるんだ眼《め》で、ちずるは見おろしてくる。 「耕太くんが、わたしのこと、とても大切に思ってくれているのは知ってる。わかってる。それはすごくうれしい。だけど、わたし……やっぱり我慢ができなくて……」 「どうして……ですか? ぼくがちずるさんと、その……ケッコン、するまで……ぼくが十八歳になるまで、学校を卒業するまで……ガマン、無理ですか?」 「無理」  きっぱりと宣言された。 「だって……耕太くんに、耕太くんの手に、直接触られると……自分でするより、とてもとても気持ちがいいんだもん!」  ぶふっ、と耕太は噴きだした。  じ、自分でするより!?  己の顔が赤くなってゆくのが、耕太自身にもわかった。耕太はおなじく頬《ほお》を赤く染めたちずるを見あげる。す、するの? 自分でしちゃうの? 「……こ、耕太くんは、しないの? その、自分で……」 「そ、それは……」 「わたしはするよ! 耕太くんを思って……こ、こう……」  ちずるは手をもぞりと下に動かした。 「いいです! 実演しなくていいですから!」 「耕太くんはどうなの? わたしの手やおっぱいと、自分のと……どっちがいいの?」  どっちがいいのって、そりゃあ。 「………………ちずる、さん、のほうが」  ちずるはきゅっと唇をかんだ。  むくりと身体を起こす。耕太の上にまたがったまま、膝立《ひざだ》ちとなった。その瞳《ひとみ》は濡《ぬ》れ、あらわとなった上半身はうっすらと桃色に染まっている。 「ち、ちずるさん」  伸ばそうとした手を、両手で包みこまれるようにつかまれた。  ちずるはつかんだ耕太の手を、うん、と押しさげる。  手は——ちずるの両太もものあいだに、手のひらを上にして、置かれた。  ちずるが指先を離しても、耕太は、そこから手を動かすことができなかった。自分の手のひらを、その真上の紺色の布地を、交互に見つめるだけだった。 「耕太くん……」  ゆっくり、ちずるが腰をおろす。  ゆっくり、紺色の布地が迫る。  ゆっくり……手のひらに落ちる。  まふん。  当たったとたん、びくびくん、とちずるが小刻みな震えをみせた。  手のひらに触れたちずるの紺色の布地は、その奥に秘められた肉体は、とても熱かった。こんもり……じんわりと熱気が伝わってくる。  熱は耕太の手のひらから、腕を通って耕太の鼻の奥に、がつん、と当たった。  ぐるぐると眼《め》が回る。  こみあげてくる感情に、とてつもない桃色の嵐《あらし》に、耕太は——。 「わー!」  ちずるを押し倒した。  押し倒して——あおむけになったためにややつぶれて広がった胸のふくらみに、顔から飛びこんだ。ふぁやややや〜ん、とおでこが、眉間《みけん》が、鼻が、口が、胸にまみれる。 「こ、耕太くん?」 「あまえんぼさん、あまえんぼさーん!」  うわごとのようになんどもいって、耕太は顔をぐりぐりと押しつけた。  無理だ、と耕太は思った。  とても抑えが効かない。我慢ができない。自制ができない。  こうなったらもう、こうなったらもう、母性をもって淫欲《いんよく》を制するしかない。あまえんぼさんである。おっぱいぱーいである。なんだかこれはこれでとても間違っているというか、毒をもって毒を制しているような気もするが、耕太にはもはやこれしかないのだ!  あーあ。  耕太の頭上で、ため息まじりの声があがった。 「もう、耕太くんったら」  ——本当に、いくじなしなんだから。  そうささやかれた。う、と耕太はびくつく。 「でも、ね」  耕太の頭に、ちずるの腕が回される。 「そんないくじなしな耕太くんが、わたしは好きよ」  ぎゅ、と耕太は抱きしめられた。  部屋のファンヒーターは、変わらず温風を吹きだし続けている。 二月 いたち王子とかえる姫      1  少女はその部屋に、ひとりでいた。  部屋は狭く、薄暗い。家具もなにもなく、古びて白く色あせた畳が、四畳と半分、敷いてあるばかりだ。窓は、正座している少女の真後ろ、淡く黄色い漆喰《しっくい》の壁の上に、小さくひとつだけしかなかった。  それは窓というよりは、横長の穴だ。  しかも——鉄の格子がはめこまれていた。  鉄格子の窓越しに、冴《さ》えた蒼《あお》い光が差しこんでいる。  月明かりに、少女の身体は冷たく照らしだされていた。純白の着物で包んだ小さな小さな身体や、黒いおかっぱ頭、幼い顔が、膝《ひざ》をそろえて座る彼女のまわりの、うっすらと埃《ほこり》のつもった畳ごと、闇《やみ》のなか、静かに切りとられている。  彼女の顔の半分は、白い包帯で覆《おお》われていた。  顔だけではない。か細い首筋や、死に装束にも似た着物の、袖《そで》から覗《のぞ》くやせた手にも、白い布が巻いてあった。  包帯姿の少女は、身じろぎひとつしない。  正座したまま、切りそろえられた前髪と、巻かれた布のすきまから覗く、わずかにたれた眼《め》で、まばたきもせずに正面を見つめ続けていた。  視線の先には、木の格子がある。  太い木の柱が、縦横に組まれ、少女のいる部屋を牢《ろう》へと変えていた。  少女はその部屋に、ひとりでいた。  部屋に——牢に——座敷牢のなかに。  たったひとりで。ずっとひとりで。  哀《かな》しくはなかった。  淋《さび》しくもなかった。  ずっとひとりだったからだ。哀しさも、淋しさも、なにかを失うことで生まれる。その『なにか』を少女に与えてくれるものは、いままでだれひとりとしていなかった。  彼女の元にやってくるものといえば、二種類のニンゲンだけ。  ゆがんだ憎々しい顔つきで、少女を『バケモノ』と呼ぶニンゲン。  食べ物と飲み物を持ってきて、そのたび『おかわいそうに』となげくニンゲン。  どちらも彼女はキライだった。  とくにキライなのは、彼女を見て哀しむ女だ。  少女は女が持ってきた食料を、ほとんど口にしなかった。女がダイキライなのもあったし、そもそも、このときの少女にはあまり必要ではなかった。  食べず、飲まず、それでも彼女は死なない。憎まれ、恐れられ、生き続ける。  人ではなかったから。  人ならぬもの——妖《あやかし》だったからだ。  いまだ名のない、幼い妖の少女は、透きとおった、からっぽな心で思う。  ——けろよーん。 「けろ……けろ……けろっぴ……?」  澪《みお》はまぶたを開く。  天井でほのかに輝く、小さな光を眺めた。まだ寝ぼけた眼《め》で、いまは明かりのついていない蛍光灯の脇《わき》で光る、常夜灯を見つめ続ける。  ——はね起きた。  たれ目を大きく見開いて、まわりを見回す。  薄赤い室内の、タンスに勉強机、壁のポスター、ハンガーにかけられたブレザーの制服とスカート、窓を覆《おお》う厚いカーテン、敷きつめられたカーペット、枕元《まくらもと》に並べて置かれた大きなかえるのぬいぐるみとひょろ長いいたちのぬいぐるみたちを、つぎつぎに見やった。寝ぐせのついたおかっぱ頭がわずかに乱れる。  最後に、自分が寝ていたベッドと、着ていた白地に緑のかえる柄のパジャマに目をやった。ほっと息をつく。 「……夢」  呟《つぶや》いたとたん、澪の顔に、さっと薄く汗が浮かんだ。  かたかたと震える。華奢《きゃしゃ》な自分の身体を抱いた。 「ひ、ひとり……も、もう、や……もう、やだ……」  歯を鳴らしながら、自分でつかんだ腕にぎゅーっと指先を食いこませる。  と、そのとき——。  かったーん。 「ひああああ!」  真後ろであがった軽い音に、澪は飛びあがらんばかりになって、背筋をびしっと伸ばす。  背中をまっすぐにしたまま、おそるおそる、振り返った。  澪の後ろ、ベッドの頭側には、細い棚がある。  細々とした小物が並べられたその棚の、角の丸いみどり縁の小さな鏡の横に、おなじくらいの大きさの平べったいものが、前のめりに倒れていた。  澪は手を伸ばし、つかむ。  それは写真立てだった。  黒いフォトフレームのなか、目つきの悪い少年が、苦々しく口元を引き結んでいる。  澪《みお》の部屋にかけられているブレザーとおなじデザインの制服を着ていたが、ネクタイはしめず、ワイシャツの襟を大きく開いていた。体格こそ小柄だったが、赤茶けた髪を鋭く逆立て、見るものを威嚇している。背後では桜が咲きほこっていた。  そんな敵意丸だしの少年の写真を、澪はうるんだ瞳《ひとみ》で見つめた。 「桐山《きりやま》くん……」  ぎゅっとその小さな胸に抱く。  桐山くん、桐山くん。澪はくり返し、少年の名を呼び続けた。      2  その日の学校は、朝から奇妙な緊張感に包まれていた。  通学路、廊下、教室、体育館、校庭、いたるところで空気が張りつめている。不思議なことに、授業が始まるとその緊張はほどけ、休み時間になるとまた引き締まった。  とくにおかしいのは男子生徒だ。  妙にはしゃぐもの、逆に無口になるもの、やたらとにやけるもの、動きがぎこちなくなるもの、そして、おれには関係ないさと遠い目をするもの……その反応はさまざまなれど、とにかく普通では、まともではなかった。  そこにあるのは、選ばれしものの恍惚《こうこつ》と不安だ。  選ばれなかったものは……空虚と絶望?  今日は——二月十四日。  聖バレンタインが拷問のすえ、撲殺された日である。  もとい。  聖バレンタインデーである。  女性が褐色の甘い菓子とともに、愛をささげる日だった。もっとも、最近では義理をささげる場合のほうが多いようだったが。  そんなラブ&ストロベリー、一部ではサーチ&デストロイなイベントデーの、放課後。いよいよ男性諸氏の焦燥がクライマックスになる時間帯に、事件は起こった。 「はい、耕太《こうた》くん」  艶《つや》めく黒髪を腰まで伸ばした女性が、満面の笑顔で箱を差しだしている。  現場は一年生の教室だ。なのに、女性がむちむちぷりんな肢体を収める、すこし窮屈《きゅうくつ》そうな制服のワッペンは、彼女が二年生であることを示していた。 「あの、ちずるさん……これは?」  教室の前の出入り口で眼《め》をぱちくりさせているのは、彼女よりかなり小柄な体つきの少年だ。女性が手に持っている箱——目の覚めるような紅《くれない》の紙で包まれ、金色の紗《しゃ》のリボンが巻かれたプレゼントを、まじまじと見つめていた。 「やだあ、耕太くん。今日はいったいなんの日だと思ってるの?」 「え? ええと」 「ふふ、聖バレンタインが拷問のすえ、撲殺された日じゃあ、ないよ? いや、ローマ帝国で処刑されたのは本当みたいだけど」 「あ」 「そう。今日はバレンタインデー……。だから、はい、チョコレート」  少年は頬《ほお》を紅《あか》く染める。女性は微笑《ほほえ》む。  小山田《おやまだ》耕太だ。源《みなもと》ちずるだ。  いつもの光景ではあった。だが、今日はバレンタインデーである。勝者と敗者が生まれる日だ。ついに放課後になってしまって、もうあとは帰るだけになってしまい、かといってなにも得られぬまま帰れば、それはすなわち敗者になってしまう時間帯なのだ。まさに事件、まさに惨劇。一部の男子生徒たちからは、あきらかな殺意が洩《も》れだしていた。  女性たちの反応はまたひと味違う。  教室の前方で容赦なくいちゃつくふたりを見ながら、ひそひそ話を始めていた。その顔はほのかな興奮に包まれ、目の前の『ちずる、耕太、愛の劇場』に酔いしれていた。 「ありがとう……ちずるさん」 「はい、どういたしまして」  ふふ、うふふと互いに笑う。 「ね、開けてみて」 「は、はい」  うながされるままに、耕太は箱の包みに手をかけた。  丁寧にリボンを抜きとり、真っ赤な包装紙をはがした。白い箱があらわれる。  箱のなかには、ハートマークの入れ物があった。  耕太はちずるを見あげる。ちずるは笑顔でうなずく。耕太は金属製のハートマークに爪《つめ》をたて、かぱっと開いた。 「……ん?」  耕太は首を傾《かし》げる。  ハートのケースいっぱいに茶褐色の物体が詰めこまれ、のっぺりとなっていた。チョコである。が、ケースの縁にみっちりと入っていて、どこにもすきまがない。  耕太は指をチョコレートに近づけた。  ずぶりと指先が沈む。  抜きとった指には、チョコがどろどろとついていた。ケースのチョコは、半分、固まっていなかった。 「……?」  しばらく指先を見つめていた耕太だったが、やがて、あーん、と口を開く。 「違うよ、耕太くん」  指先が口中に入る寸前で、ちずるが耕太の手をそっとつかんだ。 「これはね、こうやって……」  耕太の指先をもういちど半生のチョコにもっていって、二本指にし、大きくすくいとらせる。べっとりとチョコのついた指を、こんどはちずるの頬《ほお》へと近づけた。  自分の頬に、茶褐色のハートマークを描く。 「はい、めしあがれ」  手を重ねて逆の頬に当て、首と腰をくいんと曲げる。そんなかわいらしいしぐさをしながら、耕太にハートマークつきの頬を向けた。 「……あのー、めしあがれとはいいますが」 「もちろん、ぺろぺろするの」 「ぺ、ぺろぺろ!」 「ほっぺじゃつまらないっていうんだったら、いいんだよ、どこに塗っても? たとえば、こことかぁ……」  ちずるは両手を胸にもっていった。  その満ち足りた、いわばブルジョワジーな胸を下からすくいあげ、ゆよん、ゆやよんと揺らす。その大胆な揺れ具合に、胸がプロレタリアートな女生徒たちはかすかに顔をしかめた。まさに市民革命級の揺れかたであった。ぶるじょわぶるじょわ。 「こことかぁ……」  耕太に背を向け、腰に手を当てる。  そのまま下に滑らせた。スカートの、大きく張りだしたラインをするんと撫《な》で、太ももまでいきつかせる。一瞬だけ丸い、きゅっと上がったお尻《しり》のかたちがあらわになって、すぐに広がったスカートによってかき消えた。 「もしかして……こことか?」  正面を向き、こんどはおなかに手を当てた。  下に滑って……。 「わー!」  耕太が手をばたばたさせる。 「わ、わかりました! いや、わからないんですけど、その、あの、あう、えう、そうだ、ほっぺをぺろぺろ、させていただきます!」 「うふ、そーお? じゃ、はい、どうぞ」  ハートマークの頬を向ける。  耕太は眉《まゆ》と目尻《めじり》と口の両端を垂れさせた、なんとも困り果てた表情になった。だらんと下げた両手の指を、わきわきと動かす。  あきらめたように息を吐いた。  ちずるの頬に顔をよせる。それを見守っていた女子生徒たちが——男子生徒たちも、いっせいに息を呑《の》んだ。  めろん。  頬《ほお》のハートは舐《な》めとられた。  耕太の横からあらわれた舌によって。 「——なっ! なにするのよ!」  ちずるは頬を押さえて飛びのく。  耕太のとなりで、口をくにくに動かしてじっくりとチョコを味わっている銀髪の少女を睨《にら》んだ。耕太とおなじく一年生の制服を着ている肌の白い少女は、口を真一文字に引き伸ばしている。眉間《みけん》に深く皺《しわ》をよせた。 「う……あまい」 「当ったり前でしょ、耕太くんに食べさせるはずの、わたしの愛がこもったチョコなんだから! わたしの愛は、とろけそうなほどにあんまーいの!」  ちずるの怒声にも、銀髪の少女は表情ひとつ変えない。  犹守《えぞもり》望《のぞむ》だ。  第二のオンナである。自称、耕太のアイジンである。  彼女が耕太のクラスメイトであるために、ちずるは休み時間のたび、この教室にやってきていた。望に負けずに、耕太といちゃつくためだ。それで迷惑するのはまわりなのだが。……まあ、一部はけっこう楽しんでもいたのだが。  そのちずるのライバル、望は袋を取りだしていた。  白いハートマークが散りばめられた、赤い袋だ。 「わたしも耕太に、プレゼント」 「な、なによ? まさか、それ……」 「ばてれんたいん・ちょこ」  望は袋を自分で開け、自分の口の前で逆さにした。振る。  普通のチョコレートとホワイトチョコが、バラバラと望の口のなかに入っていった。眼《め》をぱちくりさせるちずると耕太の前で、望はこきばきとチョコをかみ砕く。  やがて、口から音がしなくなった。  んー、と唇を突きだして、耕太に迫る。 「——いったいなにをやっとるか」  ずびしっとちずるに脳天チョップを食らった。ごきゅん。望の喉《のど》が動く。けぷ。 「……なにするの、ちずる。わたし、自分で呑《の》んじゃったじゃない」 「それはこっちのセリフだ。バカイヌ、あなたいま、なにをやろうとした!」 「わたしは、手作りチョコを……」 「それは手作りじゃない! 口作りチョコでしょ!」  ああ、と望がうなずく。 「じゃ、それで」 「じゃ、それでじゃなーい!」  顔をつきあわせて、いまいち噛《か》みあわない口ゲンカをしているふたりのもとから、耕太は抜き足、差し足で逃げだした。  襟首をひっつかまれる。  つかんだのはちずると望《のぞむ》だ。動きはふたり同時だ。 「あぁん、耕太くぅん、もう放課後なんだし、ちずるトッピングチョコ、じっくりねっぷりとっぷり食べて!」 「耕太、手作り……口作りチョコ、食べて……食べさせる、から」  ひい、と声をあげる耕太。  そんな三人のくり広げる桃色痴情絵巻を前に、クラスメイトはため息をついたり指さして笑ったり苦々しい顔で席を立ったり携帯で写真に収めたり。 「もう、いつもいっつもはしたないんだから!」  ひとり憤慨した声をあげているのは、眼鏡をかけた少女だ。  前髪をきっちりと分け、ピンで留めている。つるんと剥《む》きだしになったおでこの下、眼鏡のレンズごしの眼《め》はつりあがっていた。肩も精一杯、怒り肩に持ちあがっている。  このクラスの委員長、朝比奈《あさひな》あかねだ。 「まったくなあ。バレンタインだからって、うかれやがってなあ」  長身の男が、あかねに話しかけていた。  男の髪は長い。耳がすっぽりと隠れるほどだ。手に紙袋をさげており、なかには大小さまざまな箱が詰めこまれている。目元、口元をゆるみきらせた、いわゆるやにさがった男の表情を見るかぎり、すべてチョコレートらしい。  あかねがにやけ男をじろりと睨《にら》む。 「ずいぶんとおモテになりますこと」 「え? いやあ、そんなこともないぜ? ヘへ、でも、ホントまいっちゃうよなあ。こんなにチョコ貰《もら》っちゃって……とても食いきれないぜ」  うっひゃっひゃっひゃっひゃ、と品なく笑う。  そんなモテ男を見るまわりの目は、耕太を見るよりも冷たかった。  彼は源《みなもと》たゆら。  ちずるの弟であり、彼女と血こそつながってはいないものの、長身、長髪、切れ長の眼、整った顔だちと、姉に似てなかなかの容姿の持ち主であった。 「ああそう。じゃ、これは余計だったわね」  そういいながら、あかねは小さな箱をほうり投げる。  笑うたゆらの顔面にぺちんと当たった。  とっとっと、とたゆらはお手玉しつつ、どうにか箱をとらえた。紙袋が落ち、倒れて中身をあふれさせる。 「義理ですからね、念のため!」  眼を丸くするたゆらに、あかねはびしっ、と指を突きつけた。  たゆらはよろめきながらひざまずき、両手でチョコを掲げもつ。床に広がったチョコに見向きもせず、小さな義理チョコに身を震わしていた。 「朝比奈《あさひな》、おれ、おれ、おれは、と、とても、うれしく……あれ?」  見あげたとたん、たゆらの表情は硬くなる。  視線の先では、あかねがまた箱を渡していた。相手はちずると望《のぞむ》に首根っこつかまれている少年、耕太だ。  おまけに——その箱は、チョコは、たゆらが掲げもっているものより、大きかった。 「おいおいおいおい、どーゆーこと? それってどーゆーこと!?」 「な、なによ。ただの義理チョコだってば」  詰めよるたゆらに、あかねは眼鏡をくいくいと動かしながら答えた。しかしそのレンズの奥の瞳《ひとみ》は、目の前のたゆらから逃れて、あらぬ方向を向いている。 「おれの眼《め》を見て答えてくれい!」 「み、見てるじゃない」  見てなかった。ちずるも望も、しっかり耕太に抱きつきながら、あかねを細めた眼でじーっと観察している。当事者たる耕太は身を縮めるばかりだ。  クラスの男子生徒のなかには、『耕太、ちずるほか、愛の劇場』に耐えきれず、ついに席を立つものがあらわれた。ひとり、ふたり……互いに肩を抱いて、うなだれながら教室の外へとでる。  傷つき、家路につく男たちを横目で見送るものが、廊下にふたり。  うちひとり、髪を逆立たせた小柄な男が、視線を教室のなかへと戻した。 「見ろ、澪《みお》。バカがバカやってるぞ。バカはまわりに迷惑、たくさんかけるな!」 「で、でも……」  廊下で男によりそっているのは、おかっぱ頭の少女。  澪だ。  少女は、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》は、となりに立つ、自分の部屋のフォトフレームのなかにいた少年、桐山《きりやま》臣《おみ》をちらりと見あげた。続けて、彼にならって教室を覗《のぞ》きこむ。  なかではあかねがたゆらに逆ギレしていた。  教壇近くで爪先立《つまさきだ》ちになって、長身のたゆらに詰めより返している。ちずると望はまだあかねを見つめ続けていた。ふたりに抱かれた耕太はひたすら小さくなっている。  ちょっとした修羅場だ。  なのに、澪はまぶしげに眼を細めた。 「こ、恋人どうし……だから……」 「ばてれんたいん、か? あんなの、バカのイベントだぞ。バカほど踊らされるんだぞ」  桐山の声に、耕太たちに追いやられ、廊下にでた男たちがうんうんとうなずいた。 「——けっ。ひがんでんじゃねーよ」  うなずいていた男たちは、ぐはっ、と胸を押さえた。  致命傷を与えたのは、桐山に気づいたたゆらだ。  桐山《きりやま》を睨《にら》む彼の眼《め》は、よほどあかねにやりこめられたものか、涙目になっていた。後ろではあかねが口をへの字にして、眼鏡の位置をくいくいと直している。ふん、と横を向いた。 「ひがむ? 意味わからないぞ」 「自分がひとつもチョコを貰《もら》えないもんだから、おれがうらやましいんだろ? なんならひとつあげましょーか、センパイ。ん? ん?」  紙袋を突きつける。あかねからの一個は、しっかりポケットにしまいこみながら。  桐山は無言で腕を一閃《いっせん》させた。  たゆらが目の前にぶらさげていた紙袋が、音もなく両断される。下半分が落下し、中身のチョコを床にぶちまけた。派手に散らばる。 「な、なにしやがる!」 「おまえ、センパイに対する態度、なってない。これ、いい機会。じっくり教えてやる!」  桐山は両手をだらりとさげ、腰を低く構えた。  たゆらも腕まくりして、顔を近づける。ふんむー、と鼻息を荒くした。 「まーた始まった……。さ、耕太くん、こんなバカどもはほうっておいて、ちずるトッピングチョコを楽しみましょーねー。どこになにを書いてもいいのよー?」 「望《のぞむ》の手作り……口作りチョコ、いま作るから」 「ですから、学生は学生らしいおつきあいを! エロス禁止!」  ちずるは半生チョコを片手に、耕太の肩を抱きよせていた。望は口のなかにチョコとホワイトチョコを入れる。あかねはひたすら肩を怒らせていた。  澪《みお》はおろおろと、いまにもぶつかりあいそうな桐山とたゆらを見つめていた。  ふいに、床に散らばったままのたゆらのチョコに視線を送る。  しばらく見つめてから、そっと背中のかえるリュックを肩から外した。殺気だつ桐山の背をちらちらうかがいながら、かえるの口をぐいんと開く。  なかには、教科書、お弁当に混じって、小さな箱があった。  赤い紙に包まれ、金のリボンがなされた箱だ。澪は顔をあげ、たゆらに向かってがるるると八重歯を剥《む》きだしにしている桐山の横顔を眺めた。  はあ、とため息をつく。      3  街路樹の並ぶ歩道を、澪はとぼとぼと歩いていた。  二月も半ば、かすかに寒さもゆるんできたとはいえ、立ちならぶイチョウの木はまだ裸のままだ。ガードレールごしの道路を車が行きかうたび、葉のない枝はわずかに身を震わせる。  寒々しい木々の下、うなだれ歩く澪の姿もまた、寒々しい。背中のかえるリュックの顔も、心なしか哀《かな》しげにたれさがっていた。  澪《みお》はため息をつく。  白い吐息を洩《も》らしながら、視線を手のなかに落とした。  毛糸の手袋をした小さな手のなかには、赤い包装の、リボンつきの箱がある。一週間前から用意しておきながら、けっきょくは渡せなかった箱だ。 「桐山《きりやま》くん……」  また白いため息をつく。  箱を手にしたまま、歩き続けた。乾いた冷たい風が、澪のおかっぱ頭を踊らす。  ぐすっと鼻をすすって——。  立ち止まった。  振りむく。 「……?」  視線の先にはイチョウの木があった。  たれ目を細め、茶褐色の樹皮を見つめる。首を傾《かし》げた。  前に向き直る。  すぐさま振りむいた。  影が、木から一瞬、姿をあらわし、すぐに戻った。  澪は眼《め》を大きく見開く。 「……だ、だれ?」  返事はない。  車が二台、三台とすぐ横の道路を通ってゆく。そのたびに、澪の切りそろえた前髪とダッフルコートの裾《すそ》が揺れた。  五台分揺らされたとき、澪の視線が横に動く。  道ばたにぽつんと、立て看板が置いてあった。ぴらぴらと風に舞うポスターには、派手派手しい『チカン注意!』の文字があった。女の子に襲いかかる男のシルエットも。  びくびくん。澪は震え、表情をゆがませる。 「い、い、い——ぃひゃあ!」  身をひるがえし、駆けだした。  ぱたぱたと音をたてて、歩道を走る。走る。走る。走りながら振りむく。  小さな影が迫ってきていた。  澪のたれ目が涙で満ちる。口を開けるも、呼吸に忙しくて、叫び声までまわらない。白い息がぽっぽぽっぽとこぼれていた。 「き、桐……」  こけた。  両手を投げだして、地面に突っ伏す。べちゃんと派手な音があがった。 「ひ、う……あう……い……ひん」  うめきながら澪《みお》は顔だけを起こす。  歩道の石畳に、赤い箱が転がっていた。あわてて這《は》いずり、しっかりと抱きかかえる。ほっと息を吐いたとたん、顔をしかめた。  膝《ひざ》を見る。すれて、赤い血をにじませていた。  うう、と目元をゆがませた澪に、影がかかる。はっ、と澪は顔をあげた。 「ひ、ひあぁ——」 「おどろかしてしまって、ごめんなさい!」  怯《おび》えて頭を抱えた澪に向かって——少年が深々と頭をさげていた。  小さい。背丈も体格も、澪といい勝負だ。グレーのズボンにスニーカー、紺色のジャンパーといった姿で、背には黒いランドセルを背負っていた。起こした頭は前髪をぴっちりそろえ、サイドは刈りあげで耳が丸だしである。さらに丸メガネをかけていて、まるっきりどこぞのおぼっちゃまのようだ。声は声変わり前なのだろう、ややかん高い。 「あ、あの……」 「ああっ、ち、血が!」  少年はランドセルを地面に下ろし、なかをがさごそとあさりだした。  眼《め》をぱちくりさせる澪の前にしゃがみこむ。手には白い消毒液の容器と、絆創膏《ばんそうこう》の箱があった。治療を始める。  消毒液をしみさせたティッシュで膝をぬぐわれた瞬間、ひぅ、と澪は小さく声をあげた。 「……ぼく、小山《こやま》ユキオっていいます」 「こ、小山、ゆ、ユキオ、くん?」 「はい。白《しら》南《は》風《え》小学校の……あの、ここからひと駅はなれた街にあるんですけど、そこに通う、小山ユキオ、小学六年生です」  丁寧に傷口をぬぐいながら、ユキオと名乗る少年は語りだした。  塾に通うため、月、水、金の週三日、この街にやってくること。いつもこの通りをバスに乗ってゆくこと。いつもバスの窓から、ひとりこの道を歩く澪《みお》を見かけていたこと。  そして、いつしか澪を眺めることが楽しみになっていたこと……。 「そ、そう、なんだ」 「そうなんですっ」  力んで鼻息を荒くするユキオに、澪は眼《め》を丸くした。  消毒を終えた澪の膝《ひざ》に、青いシートが貼《は》られる。ひゃっ、と澪は声を洩《も》らした。 「冷たいですか? でもですね、このゲル状のシートがですね、傷のチユノーリョクをヒヤクテキにコージョーさせてですね」  熱心に説明しだすユキオ。 「あ、あの……こういうの、いつも、も、持ってる、の? その、消毒液とか、こんな、ば、絆創膏《ばんそうこう》、とか」  ユキオは顔を強《こわ》ばらせた。  さっと顔を赤くして、丸メガネの向こうのつぶらな眼を大きく見開き、口を引き結ぶ。うなだれ、消毒液の小さな容器をぎゅっと握りしめた。 「ユ、ユキオ……くん?」 「そ、そうだ!」  またランドセルに手を突っこんだ。かき回して、引き抜く。思いきりな動きだったため、教科書やノートまでが一緒に飛びだした。  歩道に落ちた算数や国語の教科書に見向きもせず、ユキオは澪に両手を突きだす。 「これ、読んでください!」  ユキオが両手で持っていたのは、手紙だった。 「こ、これ?」 「ラブレターです!」 「ら、らぶれたー」  澪はユキオの言葉をそのままくり返した。  みるみる顔が赤くなる。あ、わ、や……と意味不明の単語を呟《つぶや》いて、瞳《ひとみ》をぷるぷるとあらぬ方向にさまよわせた。  目の前のラブレターに戻す。 「ら、らぶらぶらぶれた、こ、こまこまこまるわたしわたわた」 「ぼく、イッショウケンメイ書きました!」 「で、でもでも、あ、あなた、は、小学生、で、わたし、は、こ、こここ高」 「たしかにまだ小学生ですけど、ぼく、将来はカンリョーになって日本を動かす男になる予定です! 勉強には自信、あります!」 「は、はわああああ」  澪《みお》の顔は熟れきったトマトのように真っ赤になった。 「で、ででででも、ゆ、ゆゆユキオくん、わたしの名前すら、ししし、知らないし!」 「あ、そうでした!」  ユキオは手紙を引く。 「すみません、あなたのお名前はなんとおっしゃるのでしょうか」 「わ、わたわた、わたし? ……お、|長ヶ部《おさかべ》、澪、です」  長ヶ部澪……いい名前ですね、とユキオは呟《つぶや》いた。澪の顔の赤みはさらに増す。 「では、澪さん。あらためて、これ、読んでください!」  真っ赤な澪に、もういちど手紙が差しだされた。 「あ……う……」  歩道のコンクリートにべたりと座ったまま、澪は少年の差しだすラブレターを見つめる。冷たい風が吹いた。ユキオも澪も、微動だにしない。澪の顔の赤みも変わらない。 「ユ、ユキオ、くん」 「はい!」 「わ、わたしは、わたし、には——」  澪は、手のなかの赤い箱を握り直した。かすかに指先に力をこめる。 「す、好きなひ」 「……澪、おまえ、なにやってる?」  背後からの声に、澪は激しく身体をびくつかせた。ひゃあああう、と悲鳴をあげ、手をばたつかせる。そのために赤い箱はお手玉された。澪はあわてて箱をつかみ、振りむく。  後ろには、髪を尖《とが》らせた、目つきの鋭い男がいた。 「き、きききき——桐山《きりやま》くん!」 「おう!」  桐山は手をあげて澪に応《こた》えた。続けて覗《のぞ》きこんでくる。 「どーした、澪。声、ヘンだぞ?」 「な、ななな、なんでも……」  澪はさっきお手玉した箱を手で押さえて、隠した。 「そ、そそ、そういえば、た、たた、たゆらくんは? わたし、桐山くんが、た、たゆらくんとお話してたから、さ、先に」 「お話って、あのバカとのケンカのことか? それならトチュウで止《や》めたぞ」  澪は眼《め》を丸くする。 「き、桐山くんが、と、途中で、け、けんか、止めた、の……?」 「おう。なんだか澪《みお》……様子、ヘンだったからな」  ぴくん、と澪は身体を震わせる。 「……へ、へん?」 「おまえ、おれになんかいいたいことあった、ちがうか?」 「あ……」  澪は桐山《きりやま》の鋭い眼《め》を見つめ返した。  彼に渡せなかった箱を、いま手で隠している箱を、ぎゅっとつかむ。 「それに最近、ここ、ヘンなヤツ……そう、チカン、でてくるらしいそ? 澪おまえ、弱いんだからひとり、キケン」  桐山の視線が澪の奥に向く。 「……そいつ、なんだ?」  鋭い桐山の目つきが、さらに鋭くなった。  振りむいて桐山を見あげていた澪は、いそいで身体の向きを戻す。正面ではユキオが、丸メガネの向こうの眼を、桐山に負けじと鋭くさせていた。 「澪さんを——いぢめるなっ!」  ユキオは立ちあがり、桐山に拳《こぶし》を突きだす。 「……いぢ?」  鋭かった桐山の眼が、にゅんと細くなる。怒りから疑問のまなざしへと変わった。 「ん? それ、なんだ?」  ユキオが突きだしている拳には、手紙が握られていた。  澪への手紙だ。 「こ、これは……」  思いきり手紙を握りつぶしてしまっていたユキオは、あわてて指先で引き伸ばす。桐山を睨《にら》みあげた。 「これはな、澪さんへのラブレ」 「わー!」  澪は手を振りながら立つ。ぶんぶんぶん。桐山から手紙が見えないようにした。 「……どーした、澪」 「い、いや、あの、その、あ、う、えう、けろ」 「ん? んん? 澪のそれは、なんだ?」  桐山は眉間《みけん》に嫉《しわ》をよせ、さっきまで澪が振っていた手——いまはバンザイのかたちに伸ばされた手を見た。  そこには、リボンつきの、小さな赤い箱が。 「——ひぅ」  澪は声にならない声をあげた。  顔が赤くなり、続けて青く、白くなる。ふらつき、そのまま後ろを向いた。  よろめくままに、走りだす。 「み、澪《みお》?」 「ひやあああああー!」  桐山《きりやま》は遠ざかるかえるリュックに手を伸ばしたまま、固まった。  ユキオが地面に落ちた教科書、ノートをかき集めてランドセルに詰めこみ、桐山をちらと睨《にら》みつけてから澪のあとを追いかけても、固まったままだった。 「澪……」 「澪さーん、待ってください、澪さーん!」  かん高いユキオの声が追ってくる。  澪はようやく足を止めた。胸を押さえ、荒く息をつく。 「だ、だいじょうぶですか、み、澪さん」  尋ねるユキオの声も乱れていた。  澪はまだ返事ができない。中腰になり、頬《ほお》に髪をぺたりと貼《は》りつけて、横に立つ少年に視線をやった。  ユキオは例のラブレターを持ったままだった。 「ひゃ……う」  澪はしわの入ったそれをまじまじと見つめて——ひっく。  しゃっくりをしたと思ったら、激しく咳《せ》きこみだす。 「み、澪さん、澪さーん!」  しゃがみながらなおも咳きこむ澪に、上からきらきらした音楽が降りそそいでくる。女性がボーカルの、きれいなメロディーの曲だ。  澪は顔をあげる。  音楽は頭上に備えつけられているスピーカーから流れていた。その向こうには透きとおった屋根が広がっている。見渡すかぎりすべてが、曲線の、いわゆるアーチ状の天井で覆《おお》われていた。  まわりには大勢の人が歩いている。  スーツ姿のサラリーマン、OLも混じってはいたが、そのほとんどは若者だ。通りには店が建ちならび、CD店や洋服店の袋を手にさげた買い物客の姿もうかがえる。地面にしゃがみこんだ澪と、そばに立つユキオをちらりと見て、そのまま通りすぎていった。  澪はアーケード街のただなかにいた。 「わ、わたし、こんなとこまで」  逃げてきちゃったんだ……。そう呟《つぶや》くと、澪は頬を赤くした。 「そうです。澪さん、こんなところまで、ひたすら走って……まったく、あいつ、よほど嫌なやつなんですね」 「ふぇ?」 「あの男ですよ! つんつん頭で、目つきのすっごく悪い、あの男! ぼく、塾に向かうバスの窓から、ずっと澪《みお》さんのこと眺めてたって、さっき話しましたよね。そのとき……澪さんがあの男といっしょなのも、なんどか見ました」 「は……う」  顔を赤くしたまま、澪は唇をもごもごさせた。 「澪さん……あの男にいぢめられているんですね」 「……いぢ?」  澪はなんどもまばたきする。  ぶんぶんと首を振った。 「ち、ちが、ちがう、ちがいます、そんな、き、桐山《きりやま》くんは」 「いいんです。わかってるんです。だって、いつも澪さんはあの男の後ろについて歩いていて……もしも友達なら、となりにならぶはずじゃないですか」 「そ、そそ、それは」 「澪さんもいぢめられているんだ! そうでしょう!」 「……澪さん、『も』?」  その問いかけに、ユキオは身体を強《こわ》ばらせた。 「も、もしかして、消毒液とか、絆創膏《ばんそうこう》、持っていたのは」 「あ……その」 「おーう、ユキオじゃーん」  うぐっ。  ユキオはひきつったような声をあげた。  澪が横を向くと、そこにはユキオとおなじくらいの年齢の少年が、三人いた。  ただし格好はぜんぜん違う。ひとりはスカジャン、それも龍《りゅう》と虎《とら》が闘っている派手な絵柄のものを着て、ジーンズをはいている。おまけに髪は金髪に染めていた。ほかのふたりも似たりよったりの姿で、もちろんランドセルなんて背負っていない。  お坊ちゃん然としたユキオとは、まるで正反対の少年たちだった。 「ユキオちゃーん」 「ユキオくーん」  彼らがなれなれしくユキオの肩に手を回す。 「なんだよ、ユキオ。おまえ、オベンキョーしかできないかと思ったら、女子とデートなんてマネもできんだー?」  デート、デート、女子とデートォ。金髪に続けて、ほかのふたりがはやしたてた。  ユキオはただ黙っている。  澪が見ると、ユキオはかすかにうつむき、細かく身を震わしていた。その顔は青い。 「ま、ちょうどいいところで会ったよ。な、ユキオ。いつものようにさ……ちょっと貸してくれよ」  びくん、とユキオが震えた。 「いーだろ? そーしたらさ、べつにおれたちもさあ、おまえのデート、ジャマしたりなんかしないからさあ。そーだなー……ユキオくん初デート記念ということで、ひとり千円でいっかー?」  金髪少年の問いに、おーう、とほかのふたりがガラ悪く答えた。 「そういうわけでさ、ほれ、あわせて三千円。いつもよりすくなくしてやったんだぜ。おれってやさしいだろ? だから、な、とっととだして……」 「ちょ、ちょっと、まま、待って、待ちなさーい!」  んー? 金髪の少年が澪《みお》を睨《ね》めつけた。  ま、負けないもん、と澪は口をへの字にする。 「あ、あな、あなたたち、そ、それ、か、かかかカツ、カツ丼《どん》……カツレツ……カツカレー……カツサンド……えーと……?」 「……もしかしておまえ、カツアゲっていいたいわけ?」 「そ、そう、それ! かか、カツアゲ! だめ!」 「シツレーなオンナだなー。おれたちはユキオからお金を借りるだけだぜ? わかる? 借りるだけ。きちんと返すってばさー」 「い、いままで、返したこと、あ、ああ、あるの?」 「あるわけねーだろ、バーカ」  金髪の少年は高笑いをあげる。ほかのふたりも続いた。 「ば、バカって、いい、いうほうがバカなんだって、桐山《きりやま》くんもいつもいってて」 「うるせーオンナだなー。ガタガタいうと、やっちまうぞー?」  少年が拳《こぶし》を振りあげる。  澪は眼《め》をきっと細めて、その拳を睨《にら》んだ。 「そんなの怖くなんかないもの! だって、わ、わたしは高校」 「——澪さんに手をだすな!」  それまで少年たちに肩を組まれたまま震えていたユキオが、いきなりもがきだす。頭や手をばたつかせた。 「わ、いきなりなんだ、ユキ——」  振りまわした手が、びちんと少年の顔面に当たった。  金髪の少年は、顔を押さえて二歩、三歩とさがる。ほかの少年ふたりは、ぽかんと口を開けてそれを見ていた。 「……いってー……」  金髪の少年が顔から手を離し、ユキオを睨みつける。  その鼻からはひと筋、血が垂れていた。  少年ふたりが「エイジくん、ち、血、はなぢ!」と騒ぎだす。金髪の少年は鼻の下を手でぬぐって、大きく舌打ちした。 「やってくれるじゃんか……なあ、ユキオ?」  荒々しく、前に踏みだしてきた。 「み、澪《みお》さん」  ユキオが澪の手をとる。その手は汗でびしょぬれだった。 「さ、三十六計——」 「う、うん?」 「逃げるにしかずです! いきましょう!」  澪の手をつかんだまま、ユキオは駆けだした。  急に引っぱられてつんのめりそうになりながらも、澪はどうにかついてゆく。ユキオとともに人波にとびこみ、すり抜けていった。 「待て!」  足音が後ろから迫ってくる。  その音は少年だからだろう、軽い。そして速い。  ユキオのスピードはあがる。澪の脚の回転もあがった。前をゆく人にぶつかりそうになりながら——ちょっぴりぶつかりながら、アーケード街を駆けぬけてゆく。  ——水たまりが跳ね散る。  青い大きなポリバケツが倒れて、積んであった段ボール箱は崩れた。 「——止まれ、ユキオ! それとオンナ!」  澪とユキオは路地を走っていた。  道の両|脇《わき》にはビルの壁がそびえ、そのために薄暗く、狭く、おまけに汚い。  遠く、わめき声が届く。  澪が振りむくと、金髪の少年を先頭に、三人の少年が追いかけてきていた。水たまりを踏んで汚れたとわめき、転がったポリバケツにつまずきかけ、崩れた段ボール箱にすねをぶつけて悲鳴をあげていた。  その差は開いてはいる。が、まだ少年たちはしつこくくらいついていた。ユキオの手に引かれるまま、澪は路地の角を曲がる。  ユキオは立ち止まっていた。  あやうく澪は頭から彼の後頭部にぶつかりそうになる。小さく悲鳴をあげた。 「ゆ、ユキオくん、はやく——」 「ここです、澪さん!」 「ここ?」  ユキオが壁に手を伸ばす。 「——ユキオ! カエルオンナ! 逃がさないからな!」  怒鳴りながら、少年たちの足音が迫る。  すぐそばに来た。  来て——そのまま通りすぎた。  わめきながら遠ざかってゆく。  最後に『カエルオンナー!』と声を残して、消えた。 「け、けろ……」  澪《みお》はかえるリュックの肩ひもをつかんで、位置を直した。  ユキオは澪の前にいる。  そして彼の前には扉があった。ぶ厚い、金属製の、窓のない扉だ。ユキオはその扉に耳を当て、真剣な顔で外の様子をうかがっている。  澪たちは、路地にあった扉のなかに逃げこんでいた。  なかは暗かった。ひんやりとした闇《やみ》に白い息を溶けこましながら、澪はまわりを見回す。  狭い部屋だ。  なにもない。  元は倉庫だったと思わしき、コンクリートがうちっぱなしの室内には、なにもなかった。荷物のひとつもない。ただ、カビと埃《ほこり》の匂《にお》いだけが薄くただよっているだけだ。  澪たちが入ってきた扉のほかにもうひとつ、扉が左側の壁にあった。おそらくは建物のなかへと通じているのだろう。  そして窓は——壁の上に、小さくひとつだけしかない。  窓というよりは、横長の穴だ。  しかも、鉄の格子がはめこまれていた。 「あ……」  澪は薄闇《うすやみ》のなか、眼《め》を見開く。  ああ。静かに震えだした。  狭い部屋。  なにもない。  窓はひとつだけ。  鉄の格子——牢《ろう》——座敷牢。 「澪さん、もうだいじょうぶです。あいつら、もういっちゃいましたから……澪さん?」  笑顔でユキオは振りむいた。  その表情が凍りつく。 「澪さん? 澪さん!?」  澪の肩をつかみ、揺さぶる。  おかっぱ頭がぐらぐらと揺れた。が、澪は眼を見開き、うつろな瞳《ひとみ》で、口をわずかに開き、ぶつぶつと呟《つぶや》くばかりだった。自分の身体を強く抱きしめ、震えている。  ユキオは澪のロ元に耳をよせた。 「や……ひとり、もう、いや……」 「澪《みお》さん? どうしたんですか、澪さん」  呟《つぶや》きを洩《も》らすだけで、まったく反応がない。  ユキオは扉にとって返す。ドアノブに手をかけた。  引っかかったような金属音があがる。  が、それだけだった。  なんどもノブを回す。そのたびに金属音が室内に響き渡ったが、扉は開かない。ユキオは押したり引いたり、肩から体当たりしたり、ついには蹴《け》ったり、叩《たた》いたりもしたが、扉は目の前にそびえたまま、微動だにしなかった。 「な、なんで? あれ? どうして?」  ユキオは振り返る。  澪は膝《ひざ》から床に崩れ落ち、うつむいて、かたかたと震えていた。 「澪さん! しっかりしてください、澪さん! 澪さーん!」  ユキオはあらためて澪を揺さぶった。  ぼんやりしていた瞳《ひとみ》の焦点が、ゆっくりと合う。ユキオを見つめ、眼《め》をしばたたかせた。 「あ……」 「澪さん、わかりますか、ぼくです、ユキオです。小山《こやま》ユキオです!」 「ユキ、オ、くん……? えと……」  瞳をさまよわせた。 「ここは……」  ああ、ああ、と澪は声を洩らす。  うずくまった。 「み、澪さん!」 「ご、ごめんなさい、ちょっと……こういう、せ、狭いの、だめ、なの……狭くて、暗くて……まるで……牢《ろう》、みたいで……」 「ろ、牢? 牢屋ですか?」  伏せて丸くなったまま、澪はうなずく。 「こ、ここからでれば……すぐ……よくなる……だから」 「わかりました!」  ユキオはもうひとつの扉——建物内へと通じる扉に向かう。  金属音があがった。  さっきユキオが、自分たちが入ってきた扉と格闘したときとまったくおなじ、引っかかりのある音だった。  体当たりするも、やはり扉はびくともしない。 「くそう、あ、開かない! ドアが開かない! どっちも開かない……澪さん、ぼくたち、と、閉じこめられてしまったみたいです!」  ユキオは顔をゆがませた。 「……そう」  澪《みお》はまぶたを閉じる。 「すみません! ぼくがこんなとこに隠れようなんて、しなければ!」  うう、とユキオは部屋のなかを歩き回る。  なにか、なにかないか、とうろつくうち、かつーん、となにかを足のつま先で蹴《け》った。 「こ、これ……」  ユキオが拾いあげたのは、手錠だった。金属製の、手錠。  ああ、あああ……とユキオは震えだす。 「だいじょぶ……だよ」  澪はにこりと微笑《ほほえ》みかけた。 「きっと……きっと……」  澪は、ずっと手で持ったままの、赤い、小さな箱を、ふところに抱いた。  うずくまったまま、両手で握りしめる。  きっと——。 「——んん?」  桐山《きりやま》は立ち止まり、真横にある店を見あげた。  彼は繁華街を歩いていた。きらびやかなネオンにいうどられた街のなかで、その店だけは、暗く、ひっそりとしている。  ぼろぼろになっている看板には、『SMクラブ』の文字があった。  どうやらつぶれてしまって久しいらしい店を、桐山は睨《にら》むように見つめる。やがて、ふん、鼻で吐きすて、また歩きだした。      4  なにやら、騒がしい。  純白の着物に身を包んだ少女は、わずかにみじろぎをした。  彼女のいる、狭く、暗く、なにもない部屋——古びた畳と、鉄格子がはめこまれた小窓と、少女の前面いっぱいに組まれた木枠の檻《おり》しかない部屋は、なにもないがゆえに、普段はとても静かだった。  なのに——いまはすこし、騒がしい。  音は室外から届いていた。  突きやぶる音。打ち壊す音。金属音。破裂音。すべてが破壊の音だ。  そして、人の悲鳴。  それらが入り混じった音に、少女は顔に巻かれた包帯のすきまから覗《のぞ》く眼《め》をいぶかしげに細めた。視線を檻《おり》に向ける。奥に広がる闇《やみ》を見つめた。  足音が近づいてきていた。  ——光が灯《とも》る。 「お嬢さま!」  声の主は、手にランプを持っていた。  女だ。  白い寝間着の着物の上に、柿《かき》色の羽織を着た、いつも少女に食べ物を持ってくる女——『おかわいそうに』と泣く女——少女がキライな女——それが、少女の囚われた木枠の檻の前にしゃがみこみ、なにやら鍵穴《かぎあな》をいじりだす。  牢《ろう》の戸が、開いた。 「早く、早くお逃げください!」  女の手には鍵があった。  牢に囚われていた少女は首を傾《かし》げる。おかっぱ頭を揺らした。 「……ニゲる?」 「そうです。いま、お屋敷に怪しげな男がやってきて——暴れています! 旦那《だんな》さまにお坊ちゃま、家の男たちが懸命に立ち向かっていますが……」  いいよどむ。  ふっ。  少女は小さく笑った。 「アイツら、シンだ?」 「いえ! いえ! なんてことをおっしゃるのですか、お嬢さま!」 「アイツら、イツもワタシに、そうイッテる——シネばいいのに」  女は絶句した。  うつむき、たもとで目元を覆《おお》う。  泣きだした。 「——おかわいそうに」  少女の頬《ほお》は強《こわ》ばった。奥歯を噛《か》みしめる。キライだ——『おかわいそうに』、キライだ——。 「ともかく……早くお逃げください、お嬢さま。あの男の目当ては、きっとお嬢さまです」 「ワタシが。なぜ」 「それは……」  女は唇を噛み、数度まばたきした。 「あの男は、お屋敷にいきなりあらわれるなり、こういったんです。『おまえら——』」  なぜか女は黙りこんだ。  ランプの炎がゆらめく。  少女は唇の端をあげた。にたりと笑う。 「——バケモノ、イルかって?」 「お、お嬢さま」 「ツヅけて」  少女に見つめられ、女はうつむいた。 「おまえら——ば、バケモノ……ここに、隠してるな、と」 「ツヅけて」 「バケモノ、だせ、と」 「アイツら、どうコタエたの」 「そんなもの、この家にはいないと。当たり前です! お嬢さまは、決してバケモノなどでは」 「ウソつき」  女は眼《め》を見開いた。 「う、嘘《うそ》などでは」 「イイから、ツヅけて」 「……お、男と、家のものが揉《も》みあいになり……男が、なにやら刃物で斬《き》りつけたらしく……そこから騒ぎになって……」  女が顔をあげた。少女と正面から向きあう。 「お逃げください、お嬢さま。あの男、怪しげな術を使います。旦那《だんな》さまの猟銃すらものともせず……早くしなければ」 「リョウジュウ?」  少女は正座したまま、首を傾《かし》げた。 「猟銃とは……そんなこと、ここからでたらゆっくり教えてさしあげます。ですから、早くここから」  少女は動かない。  たまらず、女は牢《ろう》のなかに入った。少女に向かって手を伸ばす。 「お嬢さま——」 「サワれる? オマエ、ワタシに、サワれるの?」  女の手は、少女の包帯に包まれた手に触れる寸前で、止まった。  あ……と女が自分の指先を見つめる。  少女は微笑《ほほえ》んだ。 「イケ」 「お嬢さま」 「ココから、イケ」 「お嬢さ」 「キエろ。イナクなれ」  とろけるような笑みを浮かべたまま、少女は動こうとしなかった。  女が畳に伏せる。  泣き声を洩《も》らした。  申し訳ありません、申し訳ありません。なんどもくり返す。  少女の笑みが、くもった。 「——ウルサい」  女が顔をあげた。その頬《ほお》は涙で澪《ぬ》れていた。 「お、お嬢さ」 「ウルサいウルサいウルサいウルサいウルサいウルサい——ダマれ!」 「申しわけ」 「ウルサいウルサいウルサ——」 「……おまえらか?」  声が聞こえた。  ややかん高い、まだ年若い男の声だ。  女が身を起こし、振り返る。檻《おり》の向こう側に向き直った。 「お嬢さま、お逃げください!」  闇《やみ》のなかに浮かびあがったのは、少年の姿だ。  赤茶けた髪だった。その毛先は鋭く尖《とが》り、上に立っている。服はズボンにワイシャツといった洋装だが、ワイシャツはボタンを留めず、胸板をさらけだしていた。  ランプの火に照らされた顔は、眉《まゆ》が薄く、そして眼《め》がとてつもなく鋭い。 「おまえ、違うな」 少女をかばって前に回った女を、一瞥《いちべつ》した。女の後ろを覗《のぞ》きこむ。 「匂《にお》うぞ。おまえの後ろから、バケモノの匂い! ぷんぷんする!」 「そ、それが……」  澪《みお》はうなずく。 「き、桐山《きりやま》くんとの……出会い」  冷や汗で濡れた顔で微笑《ほほえ》む。  澪はコンクリートの壁によりかかり、両足を抱えこんで座っていた。その息は荒い。ユキオはそのとなりに、おなじく体育座りし、ぽかんと口を開けていた。  ユキオが眼をしばたたかせる。 「あ、あの、澪さんがバケモノとか……それに、座敷|牢《ろう》とか」 「し、信じられないかも、しれない、けど……ぜんぶ、本当なの。わたしが生まれた家は、や、山奥の村の、それも豪農……すごく豊かで、す、すごくえらい家だったから。……わたしみたいなのが産まれたことが、は、恥ずかしくて、だ、だから……家のなかに、牢屋を作って、ず、ずっと、そこに入れておいたの」 「ずっとって」 「ずっと……産まれてから、ずっと」 「そんな!」  えへ、と澪《みお》は笑う。 「ほ、本当だよ。だってわたし、な、名前すらなかった……み、みんな、バケモノって呼ぶだけだった」 「だって澪さんには——|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》という、リッパでステキな名前があるじゃないですか!」 「そ、それは、あとからつけた名前、なの」  ユキオは澪をまじまじと見つめた。  うなだれる。長々と息をはいた。 「……信じられません」  頭を体育座りした両足のあいだに埋《うず》めたまま、ユキオはいった。 「……そ、そうだよね。じゃあ、これから先は、お、おとぎ話として、聞いて。それから、き、桐山《きりやま》くんは——」 「匂《にお》うぞ。おまえの後ろから、バケモノの匂い! ぷんぷんする!」  少年は女の後ろを覗《のぞ》きこむ。  女が背中にかばっていた、白い着物姿の少女を見て——んん? と表情をゆがめた。  眉間《みけん》に皺《しわ》をよせ、首を傾《かし》げる。その口は半開きだ。 「おまえ……」  突然あらわれ、家のなかを暴れまわり、家人を傷つけた少年。そんな少年を目の当たりにしても、少女の表情に変化はなかった。  正座したまま、包帯の巻かれた顔で、静かに見あげていた。 「おまえ、バケモノ、違う……」  その言葉で、少女の瞳《ひとみ》は大きくぶれた。  少年が鼻をひくつかせる。顔をしかめた。 「おまえ、ニンゲン」  少女の呼吸は止まった。 「——チガう!」  少女は腰を浮かす。膝立《ひざだ》ちとなって、少年に声を飛ばした。 「ワタシは、ワタシは——」 「隠したってわかるぞ。たしかにおまえ、おれとおなじバケモノの匂《にお》いするけど……でも、やっぱりニンゲン」  くんくん、くんくん。  少年は少女に顔を近づけ、匂いを嗅《か》ぐ。 「匂いでわかる。おまえ、ニンゲンだ」 「チガう!」  少女は完全に立ちあがった。 「コレでも——」  顔に巻かれた包帯に手をかける。  一気に引きはがした。少女を見あげていた女が、息を呑《の》む。 「コレでも、ニンゲンか!」  包帯の下には、奇妙な模様があった。  黒い弧が無数に重なりあい、少女の顔に複雑な紋様を描いている。そんな入れ墨にも似た模様のある肌は、染みだした粘液でぬめぬめと輝いていた。少女はさらに着物の前に手をかけ、大きく開く。そこにも巻かれてあった包帯をはがし、幼い胸元をあらわにした。  やはり奇妙な模様が描かれ、じくじくと粘液が染みだしている。 「ワタシはずっと、いつでも、ダレからも、オヤからも、カゾクからも、バケモノだといわれてきた! ココにトジコめられてきた! なのに、なのに……ワタシが、ワタシが、ニンゲン? そんなワケ……」 「おまえはニンゲンだぞ」  少女は眼《め》を大きく見開いた。満ちていた涙が、数滴こぼれ散る。 「たしかにおまえ、半分、バケモノ……」  少年は恐れるそぶりもなく、少女の首筋、胸元に顔をよせ、匂《にお》いを嗅《か》いだ。 「うん。半分、かえるのバケモノみたいだけど、半分、ニンゲン。おれみたいにぜんぶバケモノ、違う。なんだ? おまえの親、どっちかかえるか?」 「——そんなわけが、あるか!」  荒々しい男の声があがった。  少年が振りむくと、檻《おり》の向こうに、寝間着の浴衣姿の男がいた。  口元に整った髭《ひげ》を生やした男で、普段はかっちり整えているだろう髪を、いまは血と汗で乱している。浴衣も乱れ、肩を半分さらけだしていた。  その手には、銃がある。 「旦那《だんな》さま!」  少年に向かって銃を構えている中年の男に、女が声をかけた。 「わたしたちはどちらも正真正銘、人間だ! なのに……そいつはそれそのとおり、バケモノとして産まれてきた! そのせいで……あいつは……房江《ふさえ》は……」 「フサエ? だれだ?」  銃口にもまったくおびえず、少年は女に訊《き》く。 「……旦那さまの奥さまです。お嬢さまをお産みになられたあと……産後の、ひだちが悪く……」 「黙れ! そのバケモノを、お嬢さまなどと呼ぶな!」  少年は首を傾《かし》げる。 「よくわからないぞ」  傾げたまま、痩《や》せぎすな男に近づいていった。 「わからないけど、おまえ、こいつの親。なのにどうして、こんなとこに隠す? 閉じこめる? 親は子供を守るもの、育てるもの。ニンゲンは違うのか?」 「そんなバケモノ、我が子なものか! 殺されなかっただけでもありがたく思え!」 「つまり、おまえは親じゃない。そういうことか?」  少年は振りむき、少女を見た。 「——こいつ、コロしていいか?」  男が、女が、息を呑《の》む。 「なんかこいつ、キライだぞ。その銃だって、おまえやそこの女、当たるかもしれないのに、平気でおれに向けてる。こいつ、なんというか、あー、あれだ、——バカ」 「黙れ、バケモノ!」  破裂音が、部屋のなかをつんざいた。  男が引き金をしぼるのと同時に——少年は手を振りおろしていた。  ふたつに切り裂かれた弾丸が、少年や女、その後ろの少女を大きく避けて、左右両|脇《わき》の壁に当たる。 「やっぱりおまえ、大バカ」  少年は男の頭上に手刀を振りあげた。  落とす。 「ダメ!」  当たるすれすれで、手刀は止まった。  手刀の下にある髪が、はらはらと落ちる。男の黒目が、ぐりんと上にあがった。白目を剥《む》いて——男はぶっ倒れた。 「……どうして止めた?」  少年の問いに、少女は唇を噛《か》む。 「やっぱり、オヤ、だから」  ふむ、と少年は呟《つぶや》く。 「やっぱりおまえ、ニンゲンだな」  少女が剥きだしにしたままの、模様の浮かんだ胸元をちらりと見た。 「ところで、いつまで丸だしだ?」 「え」  あ、と少女は自分の平べったい胸を見おろす。 「ひゃんっ」  両手で覆《おお》い隠した。みるみる顔が赤くなってゆく。  少年は高笑いをあげた。 「やっぱりおまえ、ニンゲン! そしてオンナ!」  うー……と少女は赤い顔で、ケタケタ笑う少年を睨《にら》む。 「お嬢さま!」  いきなり女が少女の肩に手を置く。こんどはまったくためらいのない動きだった。 「ここからお逃げください」 「ニゲる?」 「はい。ここから、この家から、お逃げください——このおかたとともに!」 「けろ?」 「はっはっは……は?」  少女は眼《め》をぱちくりし、少年は高笑いを止めた。 「——け、けっきょく、わたしの身体が、あ、あんな風になっていたのは、ご先祖さまが殺《あや》めた、い、いぼがえるの妖怪《ようかい》の呪《のろ》いだって、あ、あとでわかったんだけど……それからは、呪いをうまく自分のものにするやりかたを、ど、どうにか覚えて……いまでは、肌も元通りになって……うん?」  澪《みお》はとなりでうなだれたままの少年を覗《のぞ》きこむ。  さきほどから、まったく反応がなかった。 「ユ、ユキオくん?」  体育座りして、開いた足のあいだに頭を落としていたユキオが、のろのろと顔をあげる。 「……はい」  澪《みお》はたれ目を見開く。  ユキオの顔は真っ青になっていた。唇も青く、こころなしかメガネの向こうの眼《め》も、落ちくぼんでいる。身体は小刻みに震え——その息は白かった。  はっ、と澪はあたりを見回す。  狭く、暗く、なにもない部屋を目の当たりにした。びくん、となり、あわててうつむく。  そう。  いま澪たちが閉じこめられている部屋は、狭く、暗く、なにもなく——そして、とても寒かった。  今日はバレンタインデー。  まだ二月の十四日である。日中だって冷えこむ。まして夜となればなおさらだ。 「あ、ああ、ご、ごめんなさい。わ、わたし……」 「だ、だいじょうぶ、です。もとはといえば、ぼくが……こんなところに……逃げこまなければ……」  ユキオの声は震えていた。  とろん、とまぶたが落ちる。 「だめ、寝ちゃ、だめ!」  ばちん、と開いた。  だが、またすぐにとろとろとなる。  ——どうしよう。  どうしよう、どうしよう。澪は呟《つぶや》きながら、わたわたと手を動かした。背中のかえるリュックを探ってもみるが、なにもない。 「そ、そうだ」  手袋を外し、着ていたコートを脱ぐ。ユキオにかぶせようとした。 「だ、だめです、澪さん……そ、そんなことしたら、澪さんが、こごえて」 「わ、わたしは平気だから。だって、ほら、半分、かえるだから」 「半分、かえる……?」  ユキオがいぶかしげな表情となる。どうやらさきほどの澪の話を、ほとんど聞いていなかったらしい。 「だ、だからね、桐山《きりやま》くんが……」  ユキオにコートをのせながら、澪は瞳《ひとみ》をおよがせる。 「桐山くんが……かえる……そうだ……」  澪はブレザーのボタンに手をかけた。ぷちぷちと外してゆく。続けて首のリボンをほどき、ワイシャツも脱ぎだした。 「み、澪《みお》さん!?」  制服のブレザー、リボン、ワイシャツがユキオにかぶさった。  こんどはスカートに手をやる。ぷちんとホックを外した。  すとん。床に落ちた。 「みみみ、澪さん!」  ひらりとスカートがユキオにかぶさった。  顔にかかったチェック柄の布地を、ユキオははぎとる。  薄い水色のブラジャーと、ショーツだけの澪の姿があらわれた。胸は非常におだやかにふくらみ、お尻《しり》は小ぶりで、手足はするんと細い。 「あ、あまり、見ないで」 「あ……は、は、は、はいー!」  口をあんぐりと開けていたユキオは、あわてて手に持っていた布で顔を覆《おお》った。 「す、すみません……で、でも、いきなり、どど、どうして」 「き、桐山《きりやま》くんを、呼ぶの」 「呼ぶ? あの、け、ケータイで、ですか?」 「ううん……わ、わたしも、桐山くんも、携帯電話は持ってないから……かわりに、こうして……」 「かわりに? こうして?」  スカートのすきまから覗《のぞ》くユキオの前で、澪の身体がじんわりぬめりだす。  小窓から差しこむ光のなか、澪はてらてらと艶《つや》めき——その肌に、奇妙な紋様が浮かびあがってきた。  澪の身体に複雑な模様が浮かび、ぬめる汗を流してから、数分が経《た》った。  胸の前で手を組み、まるで熱心に祈るふうな姿の澪の足下には、汗の水たまりができている。ユキオはただただ、眼《め》をまんまるにしていた。 「み、澪さん……」  澪は微動だにしない。  ユキオはもういちど口を開け、こんどは大きく「澪さん」といいかける。  その口を閉じた。  すんすん。鼻をうごめかす。 「……え?」  まわりは、なにやら甘ったるい匂《にお》いで満ちていた。  メイプルシロップのような、まったりとした匂いが、狭い室内のなかにたちこめている。匂いの元は——。 「まさか……」  ユキオはきらめく澪《みお》を見つめた。 「澪さ——」 「……澪か? 澪、なのか?」  その声は、上から聞こえた。  はじけるように澪が顔をあげ、部屋の上部にある、鉄格子つきの小窓を見やる。 「桐山《きりやま》くん!」  鋭い目つきの男が、覗《のぞ》きこんでいた。  指が鉄格子を握っている。どうやら男はそうやってつかまっているらしい。 「こんなとこで、なにやってる?」 「と、とと、閉じこめられちゃったの」  ふん……と男が目線を横に動かした。外へと続く扉を見る。 「待ってろ」  いうなり、消えた。  こんどは扉が鳴った。  さきほど男が視線をやった扉が、けたたましく打ち鳴らされる。澪はびくん、と震えて汗を散らし、ユキオも耳を手で覆《おお》った。 「ここか、澪」 「そ、そうー!」 「……さがってろ」  澪はぺたぺたとユキオの元までさがる。  外で、かけ声があがった。  短い気合いの声は三度あがり、四度目のとき、金属製の扉に光の線が走った。その線にそって、扉は数個に分かたれる。ばらばらと破片は落ち、床に当たって硬い音をあげた。  長方形のかたちに、光が差しこむ。  月光やネオンの光が入り混じった、弱々しい夜の明かりだ。そんな青ざめた逆光のなか、ポケットに手を差しこんだつんつん頭の男が立っている。 「き、桐山くぅん!」  澪は駆けだし——。  床にできていた自分の汗の水たまりで、つるんとこけた。 「ひゃ——」  宙に浮いた小さな裸体を、桐山が受けとめる。 「だいじょうぶか、澪」  澪はしっかりと桐山に抱きとめられながら、もぞりと動く。模様の浮いた背がくねった。 「あ……よ、汚れるよ、き、桐山くん」 「汚れる、かまわない」  澪《みお》の首筋に顔を埋め、すんすん、と鼻から吸いこむ。 「澪、あいかわらずいい匂《にお》い」  ひゃー、と、澪は声にならない声をあげた。  ブラとショーツだけの、模様が描かれた肌が、みるみる赤く染まってゆく。 「匂い、風に乗って届いたぞ。この匂い、いつもはださない、化生《けしょう》の匂い。だからすぐに澪になにか起きてる、わかった。だけど……」  桐山《きりやま》は顔をあげ、真っ赤になってうつむく澪を見た。 「どうして、こんなとこ、閉じこめられた? 澪、暗い、狭い、ダメなはず」  澪は口ごもる。 「そ、そそ、それは……」  桐山の視線が、澪の後ろに向けられた。  眼《め》が鋭く尖《とが》る。 「あいつか?」 「ち、違う、違うの、桐山くん。こ、これは」 「——そうだ。ぼくのせいだ」  ユキオが立ちあがった。澪のスカート、コート、ブレザー、リボンを身体にのせたままで、桐山を睨《にら》み返す。  その眼は、涙であふれんばかりになっていた。 「ぼくが……ぼくのせいでこんなことになったのに、なにもできなかった。それどころか、澪さんにそんな姿をさせてしまって……ぼくは無力だ」  ずす、と鼻をすする。 「——そうだな。おまえ無力」 「き、桐山くん!」 「チカラなければ、だれも救えない。だれも守れない。それ、当たり前のこと」  ユキオはうなだれた。両|脇《わき》にさげた握《にぎこ》り拳《ぶし》を、ぷるぷると震わす。 「おまえみたいなやつ、ほかにもひとり、おれ知ってる。そいつ……おまえみたいに弱かった。けど、あきらめ悪い。熊田《くまだ》さん、バカオオカミ、バカ白黒オトコオンナ、みんな自分より強いやつ、だけどあきらめないで、立ち向かった。ある意味バカ。そのうち、なんか強くなってた……ムカツク」  澪は桐山によりそいながら、ユキオに話しかける彼を見あげていた。 「桐山くん……それって」 「バカにも二種類ある。いいバカと悪いバカ。おれの知ってるやつは、いいバカ。いいバカ、強い。コドモ、おまえ——いいバカになれ」  黙って話を聞いていたユキオが、顔をあげる。 「うるさい! ぼくは……ぼくは、カンリョーになって日本を動かす男になるんだ! バカになんてなるもんか!」  走りだす。桐山《きりやま》の横をすり抜け、バラバラになった扉を踏みしめ、部屋からでていった。 「……カンリョーって、なんだ?」  けろ……とユキオの去った出入り口を見ていた澪《みお》が、あ、と声をあげた。 「わ、わたしの服……ユ、ユキオくん、持っていっちゃった!」  どうしよう、と手をあげたりさげたり、おろおろしだす。  そこに桐山がブレザーの上着を差しだした。 「着ろ」 「で、でも、桐山くんが」 「この程度の寒さ、おれ、平気。澪だって平気……だけど、澪、ニンゲン。そしてオンナ。ハダカ丸だしは、あのエロキツネオンナだけでいい」 「あ、ありがと……」  澪はまだ汗で濡《ぬ》れた身体に、ブレザーをはおった。  桐山はさらにしゃがみこむ。 「乗れ」  澪は桐山の背を見おろして、きゅっとはおったブレザーをつかむ。 「で、ででで、でも」 「おぶされば、まだハダカ見えない。そのままだと、ハダカ、見られるぞ?」  ブレザーの前の合わせ目をつかんで引っぱり、身体に巻きつけるようにしていた澪は、赤くなってもじもじしながらも、やがて桐山の首に腕を回し、背中に乗った。  桐山に背負われる。 「よし……帰るぞ!」  桐山は澪のかえるリュックを拾いあげた。  路地にでて、跳んだ。  道の両|脇《わき》にそびえるビルの壁を、交互に飛び跳ね、あがってゆく。やがてビルの屋上にまで昇った。  さらに桐山は、ビルの屋上から屋上へと、飛んでゆく。  そのまま一陣の風となって、夜のなか、駆けぬけていった。  澪は桐山の背に顔をもたれさせて、まぶたを閉じる。 「ありがと……桐山くん……」 「——ご、ごめんナサい」  月光の下で、少女は少年に背負われていた。  見渡すかぎりに田んぼが広がっている。田んぼと田んぼのあいだを通る、踏みしめられた土のあぜ道を、少年は走っていた。 「おまえ、あやまるのこれで八度目。もうあやまる、いい。なんだかむずがゆい」 「じゃァ——あ、あリガと」  うー、と少年はうなり声を洩《も》らす。 「それ、おなじこと。おれ、自分のキョウダイ、おなじかまいたち、探しにきただけ。あいつら殴りにきたら、おまえ、いた。それだけ。ありがと、いらない!」  少女はふふ、と笑った。  彼女の肩には、緋色《ひいろ》の着物がかけられてあった。風にはためく布地を、少女は横目で眺める。 「……あのヒト、ナイてた」 「あのオンナか? あのオンナもやたらあやまってたな」 「ワタシ、あのヒトにヒドいこと、たくさんいった……やさしくしてくれたヒト、あのヒトだけだったのに……やさしくされると、ナゼか、イヤになった」 「ニンゲン、なんだかむずかしい。たぶんそれ、おまえがニンゲンのショウコ」 「……ワタシ、ニンゲンになれるかな」 「おまえはもう、ニンゲンだぞ」  少女は少年の首筋に抱きついた手に、きゅっと力をこめた。  ふたりは無言で、夜闇《よやみ》を駆けぬける。 「……アナタの名前、ナニ?」 「おれか? おれは桐山《きりやま》。桐山|臣《おみ》。おまえはなんて名前だ?」 「ワタシ? ワタシは……名前、ナイ」 「ない? つけられてないのか? いたちのおれにも名前あるのに……めずらしいな、おまえ」  少女はうつむく。 「よし、じゃあおれがおまえに名前つけてやる。おまえの名前……ミオ。どーだ?」 「み、みお?」 「おう。おれの名前、臣の反対。イヤか?」 「ううん!」  少女は首をぶんぶんと横に振った。肩の着物が落ちそうになって、あわててつかみ、引きあげる。 「この村、たしかオサカベ村……よし、おまえの名前、今日からオサカベのミオ! いいな?」 「……うん」  少女の——澪《みお》の声は、濡《ぬ》れていた。 「ありがと……ありがと……」  桐山は口を曲げる。 「泣くのヤメロ! オンナの涙、なんだか苦手!」 「うん……うん……」  澪《みお》の眼《め》から、涙がぼろぼろとこぼれた。頬《ほお》に描かれた模様の上を滑る。  その涙が止《や》むことは、なかった。      5  街路樹の並ぶ歩道を、澪は歩いていた。  二月も半ば、かすかに寒さもゆるんできたとはいえ、立ちならぶイチョウの木は、昨日とおなじく、まだ裸のままだ。  寒々しい木々の下——しかし今日の澪は、ひとりじゃなかった。  澪の前には、つんつん頭の男がいる。  肩をぐいと持ちあげ怒らせながら、ずんずんと突き進んでいた。澪は背中のかえるリュックを背負い直して、早足でついてゆく。 「き、桐山《きりやま》くんといっしょ、う、うれしいな」 「昨日みたいにヘンなやつ、またあらわれるかもしれない。澪、またついてゆくかもしれない。だからしかたない。しばらくはおれ、いっしょにいてやる」 「う、うん……ありがと」  澪は桐山の背中をちらと見る。  ブレザーの裾《すそ》に視線をやって……そっと手を伸ばした。  すぐに引っこめる。  裾をつかもうか、つかむまいか、なんどもいったりきたりさせた。  いきなり桐山が止まる。  澪は顔から背中に突っこんで、「ふみゃ」と声をあげた。 「き、桐山くん?」  澪は鼻を押さえながら、桐山を見あげた。 「さっそくでたぞ……ヘンなやつ」 「へ、ヘン?」  後ろから前を覗《のぞ》きこんだ。あ、と口を丸くする。 「ユ、ユキオくん」  丸メガネにぼっちゃん刈りの少年がいた。  昨日と変わらず、紺色のジャンパーにグレーのズボン、ランドセルを背負っていた。手には紙袋をさげ——ただし、その顔は傷だらけだった。 「ど、どど、どうしたの、その顔!」  頬にはシップが貼《は》ってあり、鼻には詰め物をしていた。メガネのレンズにはヒビが入り、おでこにも絆創膏《ばんそうこう》がついている。よく見ればジャンパーの肩口もほつれ、破れていた。  ユキオは紙袋を澪に差しだす。 「これ、昨日の服です。持っていってしまって、すみませんでした」  頭をさげる。 「あ、は、はい……そ、そそ、そんなことより!」 「——バカになったか、コドモ」  桐山《きりやま》はにやりと口の端をあげていた。  ユキオはふん、と鼻から息を吐きだす。 「勝てなかった……でも、負けなかった!」  桐山に向かって拳《こぶし》を突きだす。その拳には包帯が巻かれてあった。 「おまえにだって……負けないからな! いつか倒してやるからな!」 「おう。やってみろ」  ユキオはポケットに手をつっこみ、そこからなにかを桐山に向かって投げつけた。桐山は片手で受けとめる。 「……? なんだ、これ」 「おまえ、もう少し澪《みお》さんの想《おも》いにビンカンになれ! それは澪さんが昨日、おまえに渡せなかったものだ!」  それは、赤い小さな箱だった。  リボンつきの箱を見て、澪は「はぁぁぁぁぁぁ!」と声をあげる。 「ユキオく——桐山——チョコ——だ、だめ! 返して!」  ぴょんぴょんと跳ね、桐山の手から箱を奪い返そうとする。桐山は高々と腕をあげ、届かないようにして、しげしげと箱を眺めた。 「澪……これ、もしかして、ばてれんたいん、か?」  あう。  澪は真っ赤になって固まった。 「いいか!」  ユキオが桐山に向かって叫んだ。 「おまえはオトナ、澪さんはまだコドモなんだからな! ぼくとおなじ小学生なんだ! オトナがショーガクセイに手をだしたら……犯罪だからな! いまはおまえに澪さんの守り、まかせるけど……チューなんかしたらダメだぞー だけど……だけど、手ぐらいはにぎってやれよ! いつもずんずん前にいきやがって……横にならんで、手をにぎって、ゆっくり歩いてやれ! わかったなー!」  ユキオは身をひるがえし、駆けだしていった。  遠ざかる黒いランドセルを、澪と桐山は見送る。 「……わたし、小学生?」  ぷっ、と桐山は噴きだした。 「き、桐山くんまでっ!」  きっ、と見あげると、桐山はにたにたと笑いながら、赤い包みを開き、なかのチョコレートを食べていた。 「……い、いいの? バレンタイン……嫌いなんじゃ」 「ばてれんたいん、昨日で終わり。今日はもう違う。だから……食べる!」  一気にぜんぶ食べてしまった。  そして、手のひらを澪《みお》に向かって伸ばす。 「……桐山《きりやま》くん?」 「今日だけだぞ」  桐山は澪と眼《め》をあわせず、前を見据えている。眉間《みけん》に皺《しわ》を刻んだ、難しそうな顔をしていた。 「……うん」  澪は桐山の手に、自分の手を重ねあわせた。桐山の手は、とても温かかった。  しっかりと握り替えされる。  桐山は大股《おおまた》で歩きだそうとして——歩幅を小さく変えた。  イチョウ並木の下を、澪と桐山は歩く。  澪の背中のかえるリュックも、こころなしか楽しげに見えた。 ひとやすみ、ひとやすみ 〜お食事のそのあとで 二〜  んちゅ……ちゅむ……んむ……。  教室のなかは、薄暗く、ひんやりとしていた。  厚手のカーテンは閉め切られ、すきまから差しこむ外の光が、蛇口と洗い場のついた横長のテーブルや、そのまわりに並べられた丸|椅子《いす》に、輝きのラインを落としている。後ろには、ビーカーやアルコールランプなど、実験器具が納められたガラス戸の棚があった。  その右横。  戸棚と、窓側の壁のあいだに、小さなスペースが空いている。人がひとり入るのがやっとの、狭いすきまだ。  そこから、奇妙な音があがっていた。  むちゅ……ぬにゅ……あむ……。  吸いつくような、逆に吸いつかれているような。くちゅくちゅといった濁った水音まで混ざっている。なんともねばっこい。  すきまで、うごめくものがある。  人ひとりがやっとなはずの狭さに、ふたつの人影がその身をねじこませ、絡みあっていた。もぞ、むぞ、と動く。  んん……ふにゅ……んにゅ……。 「——ん」  ぷはっ。  重なりあっていた影が——唇が、離れた。  ふたりの唇と唇を、唾液《だえき》の糸がつなぐ。伸びて、弧を描いて、ぷつんと切れた。 「ち、ちずるさん……どうして……」  すきまの奥に押しこめられ、息を荒げているのは、耕太《こうた》だ。  その唇のまわりは、さきほどまでの行為の激しさをあらわすように、べたべたと汚れていた。  耕太の前で、その情熱に満ちた身体を押しつけているちずるが、自分の唇をそっと指先でぬぐう。彼女の微笑《ほほえ》みのかたちに曲がった唇も、つばで濡《ぬ》れていた。 「歯みがき、だよ」  そういって、唇のまわりをぬぐった指先をちろりと舐《な》める。 「は、歯みがきはわかりますけど。でも……なんで、こんな、キ……」 「キスしたかって? それはね……」  ちずるが顔を近づける。 「ま、また、ちずるさ——」  ぬちゅっ。  開きかけた耕太の唇が、ちずるの唇によってふさがれた。  互い違いに斜めであわされた顔、そして唇。わずかに開いた耕太の唇のすきまから、ちずるの舌がぐぬっと入りこむ。  耕太の歯を、つつ……となぞって、さらに扉をこじあけた。  すかさず奥に舌先は飛びこむ。おびえて引っこんでいた耕太の舌がとっ捕まえられた。  ちょん、ちょん。  ノックするように触れられた。  ぬめった、すこしざらついた感触が、耕太の舌にくっつく。そのまますべって、ぴちゃと舌先をあわせた。  動かない。  舌は動かさず、ちずるは身体のほうをぐぐっと押しつけてきた。  ——ち、ちずるさん。  ちずるのほうが耕太より背が高い。そのために耕太は上から唇を奪われ、その熱くやわらかい身体で、ぴっちりと押さえつけられている。  口中にはちずるの味が広がっていた。  なんといえばいいんだろう。ほとんど無味無臭だ。だけど、かすかに、ほんのわずか、舌に広がる味がある。薄く……甘いような……。  それは生き物の味。彼女の味。 「ん——んむっ」  もうがまんできない、といった感じで、ちずるの舌が動く。  耕太の舌を、歯を、裏から表から、ねぶって撫《な》でてこすりたてた。 「んー、んー、んー、んんんー!」  耕太はひたすらむさぼられるしかない。  さんざんに味わわれたあとで、ようやくちずるの舌は——唇は離れた。  つつ……と、ふたりの唇のあいだに、また唾液《だえき》のアーチができる。  はー、はー、はー、はー……。  耕太は息を荒げ、三方を囲む壁に身体をもたれさせた。まったく力が入らない。視界もうるんできた。鼻をすすり、前に立つ、やたら透明な笑みを浮かべる彼女を見あげた。 「ね? 歯みがき、できたでしょう?」  薄くちずるは微笑《ほほえ》んだ。  たしかに……たしかに、耕太の歯はきれいになった。  むぞむぞと自分の舌でもなぞってみるが、つるつるして、汚れひとつ感じられない。すべてちずるに持っていかれてしまった。  でも……だけど……こんなのって……。  ——事の発端は、昼休みの会話だった。  いつものように、ちずると望《のぞむ》の手作りのお弁当を食べたあとの、とりとめのない会話のひとつ——そのときはそうだと思っていた。 『ね、耕太くん。歯みがきって、三食の食事ごとにしたほうがいいんだって。知ってた?』  なにげないちずるの言葉に、耕太はうなずいた。  たしかにそうだろうと思ったからだ。同時に、朝と夜、眠る前にはみがいているけど、昼、ごはんを食べたあとにするのはちょっとめんどくさいなあ、とも感じた。  正直に伝えると、ちずるはにぃっと笑い、 『じゃあ——手伝ってあげる』  といった。  手伝うというのがどんな意味を持つのかも知らず、耕太はちずるに引っぱられるまま、教室をあとにした。  そうして耕太は、ここに——化学実験室にいる。  きた瞬間に嫌な予感はしていたのだ。だって、ここはかつて、耕太がちずるを『お尻《しり》ぺんぺん』なんてしちゃった場所なのだから。  それでも、まさか、こんなことになるなんて……。  紅潮した顔のちずるが、唇のあいだから、ちろりと舌の先を覗《のぞ》かせる。  鮮やかにピンク色の、きれいな舌だった。 「わたしの舌は、今日から耕太くんの歯ブラシだよ……耕太くんの汚れを、毎日きれいにしてあげる」 「ま、毎日?」 「そう、毎日。いいでしょ?」  ちずるはただでさえ密着していた身体を、さらにきつくあわせてくる。  熱い身体。つぶれた大きな胸。そこから——胸元から、ちずるの匂《にお》いが立ちのぼってくる。あの、甘く、やさしく、あたたかな匂い。いつも耕太を落ちつかせてくれる匂い。  それが、いまはとても濃かった。  どろりととろけきったバターのように濃厚で、濃密だった。熱く、濃く、匂いは耕太を包みこんでくる。耕太の意識も、とろとろのとろけバターになってきた。 「ね、耕太くん……」  ちずるはすっかり上気している。ほてった頬《ほお》が汗ばんでいた。  きっと自分も、と耕太は思う。  ぼくも、ちずるさんとおんなじになってるんだろうな。  興奮しきった、すんごくえっちな顔つきを——えっちな匂いを——。  ちずるがまぶたを閉じた。  ん、と唇を伸ばしてくる。小鳥がえさをついばむしぐさに似ていた。  耕太もまぶたを閉じる。ほとんど見えなくなった視界のなかで、ちずるの動きにあわせて、唇を尖《とが》らせた。  唇がくっついて——。  荒っぽく教室の戸が開いた。 「コウター? いるー?」  望《のぞむ》の声だ。  ちずるは耕太と口づけしたまま、ぐぐ、とさらに身体を押しつけ、戸棚と壁のすきまへと、物陰へと隠れる。  だから耕太からは望の姿は見えない。  足音は数人分、聞こえていた。 「——本当にここなの? 犹守《えぞもり》さん」  あかねの声に、耕太はどきんとなる。 「うん。耕太の匂いと、えっちちずるのえっちな匂い、廊下からここに入った」 「でもよー、見たとこ、だれもいねーぜ?」  たゆらまでいた。  ちずるに導かれるまま教室をでたとき、耕太とエロス行為をするのを止めるつもりだったのだろう、望やあかねもついてきていた。  そこを途中で振りきって、この化学実験室にきたのだ。  だが……望はニホンオオカミの化身。匂いをたどれば追いかけてこられる。  すんすん、すんすん。  匂いを嗅《か》ぐ音が聞こえてきた。  望《のぞむ》が、室内を探っている——。  ちずるが身体を強《こわ》ばらせたのが、すきまなくあわさった身体を通して、耕太にもわかった。耕太の鼓動も高鳴る。  どくん。どくん。  やけに音は耳に響き渡った。  これはぼくの? それとも、ちずるさんの? どちらの鼓動なのか、耕太にはわからなかった。もしかしたら両方なのかもしれない。  口づけしたまま、きつく身体をあわせたまま、耕太は身を固くする。眼《め》を閉じた。 「——いない」  望の声に、耕太は眼を見開く。 「ここに、耕太とちずるの匂《にお》い、ない……。でも、たしかに、廊下の匂いはここにつながってるのに……うーん?」 「……化かされたんじゃねーか、こりゃ」 「なに? なにをいってるの、源《みなもと》? 化かすって、まるでちずるさんをタヌキみたいに」 「タヌキっつーか、キツネ……まあいーや。ほれ望、ほかのとこ探すぞ。ほれほれ」 「あ、ちょっと、なにごまかしてるのよ、源、待ちなさいったら!」  足音が動く。  教室の戸が閉まった。  三人の声が遠ざかり、完全に消えたところで、耕太とちずるは身体の力をぬき、深く息をはいた。  ふたり顔を見あわせて、そして笑う。自然に笑いはこみあげてきた。 「ちずるさん……匂い、いつのまに」 「——まあ、ちょっとね」  ちずるは齢《よわい》四百歳を越える妖怪《ようかい》、化《ば》け狐《ぎつね》だ。  以前、耕太は彼女が人をよせつけぬ結界を張ったり、不思議な術を使うところをなんどか見た。きっといまは匂いの痕跡《こんせき》を消す術を使ったのだろう。まさに化かしたわけだ。  助かった……とまた深く息をはきかけて、耕太は気づいた。  どうして、ぼくは隠れたままでいたんだろう?  ちずるにえっちな行為をされるのが——食後の歯みがきとかいって濃厚きわまるキスをされるのが嫌なら、あのとき、望たちに見つけてもらえばよかったのだ。声のひとつ、は口づけされたままだったから無理にしても、物音のひとつでもあげれば、簡単なことだ。  なのに、自分は隠れた。  ちずるといっしょに、身を固くして、息を潜めた。  どうしてなんだろう……。  ちらとちずるを見あげた。  濡《ぬ》れた唇を見ても、答えはでない。  湧《わ》きあがった想《おも》いを振りきろうと、耕太はすきまから抜けでた。油断していたのか、ちずるもあっさりと耕太に押されて、脇《わき》からの脱出を許す。 「あ……」  ちずるが耕太の腕をつかんだ。  耕太は振りむき、ちずるを見つめる。  視線が絡んだ。  おびえたように、ちずるの瞳《ひとみ》が揺らぐ。耕太の腕をつかんでいた手から、力が抜けた。するりと指先がほどけて、腕から外れた瞬間——耕太は逆にちずるの手をつかんでいた。  ぐいと引っぱる。  なぜかちずるは後ろにさがった。そのため、彼女の身体はさきほど耕太が入っていたすきまに、すっぽりと入ってしまった。  攻守、ところを入れ替えた格好になる。  耕太は身体をよせた。ちずるはさがった。しかしさがれない。ぴたりとくっついた。 「こ、耕太く……」  耕太は、ちずるの唇をふさいだ。  すべては、気がついたらこうなっていた、という感じだった。  自分から、ちずるさんにキスをしてるなんて……それも強引に。  ちずるはまるで恐《こわ》がっているかのように、固く眼《め》を閉じていた。それを見たとたん、耕太の背中をぞくぞくするものが駆けあがる。  強引に舌を差しいれてみた。 「ん……んく……ふむっ……んふっ」  耕太にちずるほどのテクニックなんてない。ただひたすらにむさぼるだけだ。  最初はおずおずと、やがて大胆に。ちずるはひたすら受け身で、だが暴れまわる耕太の舌に応じて、彼女も舌も伸ばしてきた。  絡みあう、吸いあうふたりの舌。  くちゅ、くちゅ、くちゅ……。 「ふ、んふ、んー!」  声にならない声が、ちずるの鼻から洩《も》れた。  ちずるの腰は耕太に押しつけられていた。それがさらにきつく当たる。耕太も押し返し、そして押しつけあったまま、ふたり、びくびくと震えた。  脱力する。  耕太が唇を離しても、ちずるはとろけきったままだった。瞳の焦点があっていない。 「こ、耕太くん……耕太くん……わたし、わたし、もう」  眼から涙があふれんばかりになっている。  その瞳に誘われるまま、耕太は手を伸ばした。  荒い呼吸に上下する、はち切れそうなちずるの胸——。 「——だめっ!」  ちずるは胸を両手で隠した。まるで自分を抱くように。 「……ちずるさん」  きつくまぶたを閉じ、かすかに震えるちずるの前で、耕太はただただ立ちつくしていた。ちずるに向かって伸ばしかけていた手のひらが、へにょ、と曲がる。 「ごめんね、耕太くん……」  耕太とちずるは、ならんで廊下を歩いていた。  その足取りは重い。 「いえ、ぼくこそ、あんな、強引に……ああ、ぼく、サイテーだ……」 「ちがう、ちがうの!」  ちずるが首を振った。腰まで伸びた髪の、艶《つや》が乱れる。 「すっごくうれしかった。初めて耕太くんから求められて……とてもうれしかったし、すごく……すごく、気持ちよかった……」  あまりに恥ずかしい告白に、耕太の頬《ほお》は熱くなる。うつむいた。  さっき、あんなすごいことしておいて……と照れる自分を自分でつっこむ。 「その……ね? すごく、よすぎて……恐《こわ》くなっちゃったの」 「恐く?」 「うん。ただでさえ……あんな、キスでさえすごかったのに……あれで、耕太くんに触られたりなんかしたら……ど、どうなっちゃうのかなあって」  ど、どうなっちゃうんでしょう。 「あのとき、耕太くんにキスされたとき、それだけで頭のなかは真っ白になっちゃったから、その上さらに、もみもみなんてされちゃったら……わたし、死んじゃってたかも!」 「し、死!?」  うなずくちずるの眼《め》は、あくまで真剣だ。  がじがじと爪《つめ》をかじりだす。 「ダメだ……こんなことじゃ、耕太くんに最後までしてもらえない……抱かれていきなり腹上死じゃ、それじゃ、そんなことじゃ……あまりにもったいないもん……」 「あ、あのー、ちずるさん」 「もっともっと、わたしはえっちにならなくちゃ! どんなプレイだって受け入れられるようにならなくちゃ! なる、がんばる! ちずる、えっちになる!」  とんでもない宣言に、耕太はあわてた。ふためいた。 「ち、ちずるさんはですね、もう充分にですね、えっちでですね」 「でも……ふふっ、耕太くんも……」  微笑《ほほえ》みながら、ちずるは耕太を見つめてきた。細めた眼が、とてもなまめかしい。 「あんなにすごいテクニック、いつのまにか身につけちゃって」  そういって、とん、と肩をぶつけてくる。そのまま身体をあずけた。腕から、胸のふくらみから、腰から太ももから、ちずるのぬくもりが伝わってくる。 「て、ててて、テクニックなんて、そんな!」  耕太はうつむいた。 「ぼ、ぼく、ただただ、必死で……無我夢中になってしまって」 「わたし、耕太くんのキスだけでもう、とろっとろになっちゃったんだよ? いまなんか、すっごく腰、重たくって……。下着だって……」  ひしょひしょ、と耳元でささやく。  ふが、と耕太は鼻を鳴らし、鳴った鼻を手で押さえた。 「あ……また鼻血?」  こくこくと耕太はうなずく。  ああ、うつむいちゃダメ、身体を起こして……そう、上を向いて、と耕太は天井を見あげさせられる。  ちずるがティッシュを用意した、そのとき。 「あー! 見つけた! そこの不純な異性交遊しているふたり!」  だんだんだだん、とけたたましく足音が近づいた。 「不純異性交遊は、禁止でっす!」  あかねが、眼鏡の端を片手でつまんでその位置を直しつつ、もう片手は腰に当て、足は肩幅に広げた、いわゆる仁王立ちをした。両のかかとを浮きあげ、どん、と廊下を踏み鳴らす。  横からは、すんすん、と鼻をうごめかす音がした。 「わっ」  いつのまにきたのか、望が真横から、耕太の首筋、耳、そしてちずるの首筋と、匂《にお》いを嗅《か》いでいる。  すんすん、すんすん。  望の小高い鼻が、耕太とちずるの唇をいったりきたりした。 「なんか、ここから……いやらしい匂い、する……」  耕太とちずるは口元をぬぐった。同時に、ごしごしと。  じと、と望が上目づかいで睨《にら》んでくる。あかねもおなじ表情をしていた。こころなしか、頬《ほお》がふくれているような。 「——おい」  いきなり耕太の肩が組まれた。  組んだのは、髪をさらさらとなびかせた長身の男——たゆらだ。  たゆらは耕太をちずるから引きはがす。横目でじろりと見おろしてきた。 「耕太、おまえ……」 「は、はい」 「まさか——やったのか?」 「や、やや、やややや、やー!?」 「やってませんっ! あのね、たゆら? 耕太くんが、この耕太くんが、そんなに——五分や十分で終わるぐらい、早いとでも思ってるの!?」  ちずるが怒鳴った。  ていうかそれなんだかちがうー、いいわけとしてまちがってるうー。耕太は口をぱくぱくさせた。あかねはしかめっつらで眉間《みけん》に指を当てつつ頬《ほお》を赤くし、望《のぞむ》はうん? と首をひねっていた。  たゆらが口をへの字にする。 「……まあ、たしかにな」 「た、たゆらくん!?」 「勘違いすんな。納得したのは持久力じゃなくて、回数だ。おまえらエロエロモンスターどもが、一回こっきりでがまんできるわけねーだろ。それこそ半ダースは……」 「源《みなもと》! いいかげんにしなさい!」  あかねがたゆらの耳たぶをつかみ、引っぱりさげた。  いたいいたい、とたゆらは涙目になる。 「ともかく……歯みがきとかいって、水飲み場にはいなかったし……きみたち、いったいどこにいたの? なにをやっていたの?」  たゆらの耳たぶをつかんだまま、あかねは腰に手を当て、また仁王立ちになった。耕太の真横にいる望も、うんうんとうなずく。 「そ、それは……」 「安心しなさいな。当分、歯みがきはないから」  え? とあかね、たゆら、望が眼《め》をぱちくりとさせる。うかつにも、耕太もぱちくりしてしまった。 「いまのわたしでは、とても耕太くんの歯みがきにおつきあいできないもの。もっともっとレベルあげなくちゃね……。うん、さしあたって、さくらんぼの茎結び、百回から!」  ぐっ、とちずるが握《にぎ》り拳《こぶし》を作った。 「な、なに? 歯みがきとさくらんぼに、いったいなんの関係が?」  あかねの問いにも、ちずるはがんばるぞー、がんばるぞー、と気合いを入れるばかりだ。  耕太は……もう昼の歯みがきがないことを、ほんのちょっぴり残念に感じている自分に気づいてしまって、ぶんぶんと首を横に振った。 「え? ど、どうしたの、小山田《おやまだ》くん」  耕太はひたすら首を振る。横に、横に。 三月、こんこんこん、なホワイトデー狂詩曲      1  街の中心部に、ちずるとたゆらの住むマンションはあった。  オートロックつきの、八階建て高級マンションだ。その七階、ふたりだけで使うにはちょっと大きすぎる場所に、ちずるとたゆらは暮らしていた。  キッチンつきの広々としたリビングダイニング。  ちずる、たゆら、それぞれの寝室。  浴室、トイレとあって、さらに三つの部屋があった。もっとも、いまその三部屋は、ちずるによって物置という名のゴミ部屋にされていたが。  賃貸ではない。  ウン千万円だして、ちずるが自分で買ったものだ。  かつてちずるが、〈葛《くず》の葉《は》〉——いわゆる妖怪《ようかい》をとりしまる組織に、不良妖怪として捕らえられる前。化《ば》け狐《ぎつね》として、ニンゲン社会をいいように泳ぎまわっていたころ、彼女はかなりの額の財産を稼いでいた。捕まった際に没収されはしたが、薫風《くんぷう》高校での保護観察という処分を受けたとき、金銭にかぎって返却されていた。  そのお金でテキトーに購入した物件である。七階なのも、ラッキーセブンでいいじゃない、とテキトーにちずるが決めたからだった。  荒稼ぎしていたといっても、べつにちずるはお金を愛しているわけではない。  いま彼女の愛は、たったひとりの少年にすべて注がれているのだし——ただ、お金があれば、いろんなものごとがスムーズにゆくだろうことも、よくわかっていた。  さて。  そのマンションの一室、たゆらの部屋。  やはり、ひとりで使うには広い部屋で、たゆらは、かち、かちかちと、硬い、機械的な音をあげていた。  室内は暗い。  明かりといえるものは、薄い液晶モニターからこぼれる、淡い光だけだった。  椅子に座って、デスクの上のモニターを見つめる、たゆらの精悍《せいかん》な顔がその青白い光に、照らしだされていた。  耳が隠れるほどに長い髪、とおった高い鼻、引き締まった唇、細いあご先。  まるで優男のようなつくりだが、ぎりぎりのところで、目尻《めじり》のつりあがった鋭い目つきが、彼にたくましさを与えていた。  控えめにいっても、美形である。  血のつながりはないのに、どことなく姉、ちずるに似ているのは、おなじ化け狐という種族だからだろうか。  しかし、姉と違って、彼に恋人はいない。  女性が苦手なわけではない。むしろ得意なほうだ。競技があればとりあえず県代表にはなれるだろうくらいには。バレンタインのチョコだって食べきれないほどもらった。  それでも——彼に恋人はいないのだ。  かち、かちかち。  暗がりのなか、たゆらは手のなかのマウスを操作している。  スウェットシャツにスウェットパンツという寝間着姿で、液晶モニターを見つめていた。モニターから伸びるコードは、デスクの下のパソコンにつながっていた。  かち、かちかち。  彼の顔を照らす画面の光が、その色あいを変えた。 「ん……なになに」  キーボードの脇《わき》に置いてあった厚い本を、たゆらはぺらぺらとめくりだす。  本には英単語と、その意味が書かれてあった。英和辞典である。たゆらはこめかみをぽりぽりとかきながら、パソコンの画面と辞典とを、交互に見返した。 「えーと……注文するページはどこだっけ。たしか……」  やがてたゆらは、キーボードをちょん、ちょんと人さし指で押す。  モニターの光が、ぱぱぱっと変わった。 「お? おおお?」  たゆらは英和辞典と首っ引きになって、画面にあらわれた英文を読みだした。  にや、と口を曲げる。 「よーし、よしよし……これで第一関門、突破だな」 「……なにが第一関門?」  背後からの突然の声に、たゆらは、どわったあ! と大声をあげた。  がたがたと椅子《いす》を揺らしながら、振り返る。 「な……なんだよ。おどろかすなよ」  いつのまにやってきたのだろうか。たゆらの部屋のドアが開いていた。開きっぱなしのドアの前に、薄桃色のパジャマを着た女性がいる。  たゆらの姉、ちずるだ。  ちずるは、いつもは腰までおろした豊かな髪を、眠るのに邪魔だからだろう、いまは頭の後ろで小さくまとめていた。たゆらとおなじくつりあがった眼《め》は、じと、と細くなっている。  ——くわあああ。  口元に手を当て、ちずるはいきなり大きくあくびをした。  わふ。目尻《めじり》に浮いた涙を、指先でこする。 「たゆら、おまえね、いま何時だと思っているのよ。その、なんだっけ、えっと、かちゃかちゃ? そんなのばっかやって……もしもいけないウィルスなんかもらって、わたしの個人情報、そうね、体重なんか世界に漏らしたりしたら、全ブッコロだからね?」 「あのね、ちずるの体重なんかこのパソコンには入ってないし、おれだって知らないし。やってるのはかちゃかちゃじゃないし、インターネットだし」 「なんだっていいわよ、そんなもん」  不機嫌そのものの顔で、ちずるはがしがしと頭をかいた。 「まったく……熊公《くまこう》といい、おまえといい、妖怪《ようかい》変化《へんげ》がパソコンなんかにかぶれてるんじゃないっつーのよ。そんなにエロ画像がみたいわけ? それとも出会い系?」 「まーた、テキトーな知識でモノを語る……いまどき、ニンゲンなら小学生だってネットやってる時代だぜ。熊田《くまだ》のはオンライントレードだろうしさ」  はん、とちずるは薄笑いを浮かべた。 「なによ。ネットやったからって、おっぱいが大きくなるわけじゃなし」 「なんだよ、その理屈は……っていうか、それ以上大きくするつもり?」  たゆらはしげしげと姉の姿を見つめる。  薄桃色のパジャマの胸元は、けっこうすごいことになっていた。胸のふくらみにボタンの合わせ目が引っぱられ、いまにもはじけ飛びそうになっている。  ちずるは、ふん? と腰に手を当て、ポーズを決めた。 「どう、このパジャマ。かわいいでしょ」 「むしろ、エロい」  なにおー!  ちずるはテーブルの前に置いてあったクッションをつかみ、ぶん投げた。たゆらは避けもせず、顔面で受け止める。 「……前のほうがさ、よかったよ」  椅子《いす》の脚のそばに落ちたクッションを拾いあげながら、たゆらはぽつりといった。 「前? どういう意味よ」 「ちょっと前まで……アイツと出会う前まで、ぱんつ一枚にすっけすけのネグリジェだったじゃんか? たまにすっぽんぽんでさ。そっちのほうが、よっぽどぴったりだよ」 「……おまえね、わたしをなんだと思ってるのよ」 「エロオンナ」  ちずるは無言で、こんどはクッションではなく、テーブルをつかんだ。 「怒るかもしれないけどさ。おれにとっては、エロオンナなちずるのほうが本当のちずるなんだよ。あのころは……ひまつぶしで男を化かして、朝っぱらから酒をかっくらって、気まぐれですぐキレて、炊事洗濯、ぜんぶおれに押しつけて……ホント、ムッチャクチャな、だけど……たしかにおれの姉さんだった」  姉さん、の言葉で、ちずるは頭の上に持ちあげていたテーブルを、おろす。 「変わっちまったよ、姉さんは。アイツと出会って……アイツのせいで」 「そうね。わたしは変わった。あのひとと出会って……耕太《こうた》くんのおかげで」  ふふ、とちずるは微笑《ほほえ》む。 「いわれてみれば、お酒もやめたし、料理するようになった。耕太くんの部屋の掃除もしてるし、洗濯だって……本当にわたしは変わった。でもね、これがいまのわたしなのよ。ネグリジエじゃなくてパジャマを着る、エロじゃなくてカワイイちずるさんが、本当のわたしなの。だってさ、ずっと探してたものに巡りあえたんだもん……しかたないじゃない」  けっ、とたゆらはそっぽを向いた。  ちずるはにこやかな顔でため息をつく。しかたないやつめ、といった表情だった。  くるりと背を向け、ドアに向かって歩きだす。 「おい、寝るのかよ」 「トイレに起きただけだもの。おまえも早く寝なさいな。明日も学校なんだから……」  ちずるが静かにドアを閉めた。  ふー、とたゆらは息をはく。 「明日も学校なんだから……ねえ」  とてもあのちずるのセリフとは思えない——胸のうちでそうつぶやきながら、たゆらは椅子《いす》を回し、パソコンの画面に向き直った。 「……ちずるのことは、いえないか」  おれも変わっちまった——。  長いまつ毛を伏せながら、たゆらは思った。妖怪《ようかい》がパソコンになんかかぶれてるんじゃない……まったくそのとおりだ。 (だってさ、ずっと探してたものに巡りあえたんだもん……しかたないじゃない)  ちずるの言葉とともに、たゆらの頭に、ひとりの少女の姿が浮かぶ。  髪をぴちっと分けて、おでこをつるんと覗《のぞ》かせた、とてもきまじめそうな、眼鏡の少女だ。彼女は眼鏡の位置をくいっと直して、いつものように怒った顔をしていた。  へ、とたゆらは笑った。 「ホント……しかたねーよな」  デスクの引きだしを開ける。  なかには黒い、小さな箱があった。かつてあの少女からもらったチョコの包みだ。  見るからに義理だったが……ほかのどんな本命チョコよりも、たゆらにとってはうれしく、そしておいしいチョコレートだった。もったいなくて、じつはまだ一個、中身を残していたりもした。  たゆらはパソコンの画面に目をやる。 「——こっちの準備はできた」  視線の先には、銀の指輪が映っていた。  細かな装飾のほどこされた指輪だ。そのまわりには、英文が並べられてあった。どうやら外国のサイトらしい。  ネットショッピング、と英文字で書かれたサイトを前にして、たゆらはデスクの上に両|肘《ひじ》をついた。手をあごの下で重ねあわせる。  あごをのせ、目つきを鋭くさせた。 「あとは……アイツをどうするか」  第二関門だな、とつぶやく。      2  それから一週間後。  自分の準備が万端になった時点で、たゆらはアイツをどうにかすることにした。 「話がある。ちょっと顔、貸せ」  アイツ——小山田《おやまだ》耕太の机の前に立ち、あご先をくい、と教室の外に向ける。  ちょうど今日の授業はすべて終わったところだ。教科書やノートを机のなかにしまいかけていた耕太は、たゆらを見あげて、二、三度、まばたきをした。 「たゆらくん……話って、なに?」  小動物……ハムスターを思わせるしぐさで、首を傾《かし》げる。 「ここじゃいえないから、顔を貸せっていってんだけどな。まさか『顔を貸せ』って言葉の意味が、わからないわけじゃないだろ?」  わからなかったらしい。  耕太は小さな辞書を取りだし、ページをめくりだした。 「か、か、か……顔、顔、顔……貸す、貸す……あった! えーっと、『頼まれて、人に会ったり人前にでたりする』——だって。ぼく、だれかと会うの?」  へえ、そういう意味だったのか。たゆらも勉強になった。 「じゃなくてだな……おれがおまえにいいたかったのは、『てめえにいいたいことがあるから、がたがたぬかさず、とっととついてきやがれ!』なんだよ、いまの場合」  ふうん、と耕太はなにやら感心した様子だ。 「先生がいってたよね。辞書に頼りすぎるな、言葉は生きているのだから……って。つまり、こういうことだったんだね、たゆらくん!」 「……ま、納得してくれたんならいいけど。で、きてくれるのか?」  うん、と耕太は素直に従った。  机から、教科書やノートを鞄《かばん》に移す。 「ん? おまえさ、わざわざ教科書、家に持ってかえってんの?」 「じゃないと、宿題できないじゃない、たゆらくん」 「宿題なんか、普通やらないじゃない、耕太くん」 「普通するよ! たゆらくんは、本当にもう、ちずるさんにそっくり……」  あ、と耕太は手を止めた。 「そろそろ、ちずるさんが迎えにくるころだ」  あ、とたゆらも声をあげた。 「やべえ! こんなことやっておまえとなごんでいる場合じゃねえ! ちずるがきたら、まーたややこしいことに……えーい、耕太、早くしろ!」  たゆらは耕太の首根っこをつかんだ。  ブレザーとワイシャツの襟を両方つかまれ、耕太はわ、わわ、と声をあげる。教壇の前をずりずりと引きずられ、教科書やノートを落とした。 「たゆらくん、待って待って! 教科書が、ノートが……」 「ええい、あとにしろ!」 「え? あと、あるんだ?」 「うるさいうるさい。おまえ、男だろ? タマついてんだろ? 男なら宿題なんか、人のノート借りて写せ!」 「それはいつものたゆらくん……それやっていつも、朝比奈《あさひな》さんに怒られてるじゃない」 「うるさいうるさいうるさい!」  たゆらは教室のドアまで、耕太を引きずっていった。  廊下にでる寸前で——立ち止まり、振りむく。  後ろには、銀髪の少女がいた。  耕太の自称アイジン、じつはたゆらとおなじく妖怪《ようかい》の、犹守《えぞもり》望《のぞむ》だ。  人狼《じんろう》の少女は、細やかな銀髪とおなじ色の瞳《ひとみ》で、じっとたゆらたちを見つめていた。華奢《きゃしゃ》な身体に、その細い腕でもって、耕太が落とした教科書とノートを抱えている。 「……ついてくる気か?」  こくん。  望はうなずいた。  たゆらは望の顔の前に、パーのかたちに広げた手のひらを、置く。 「これは男同士の話しあいなんだ」 「オトコドーシ?」 「おう。だからタマのないやつはお断りなんだよ。悪いな」  耕太に教科書とノートを渡して、望はその場にぽつんととり残された。指をくわえて、廊下にでてゆくたゆらと、引きずられてゆく耕太とを、見送る。  くりん、と振り返った。 「オトコドーシ、タマナシ禁止、だって」 「——本当、源《みなもと》は品がないんだから!」  望の後ろでは、剥《む》きだしおでこに眼鏡な少女が口をへの字にしていた。 「来月にはもう、わたしたちも二年生だというのに、ちっとも成長しないのよね、あのバカ。小山田くんのことだってそう。いいかげん、ちずるさんとの仲を認めてあげればいいのに、あのふたりはどうやったって……っと、ごめんなさい、望も小山田くんのこと」  眼鏡少女、朝比奈《あさひな》あかねは、しまった、という顔で、望《のぞむ》を見る。  望は平然としていた。 「だいじょうぶだよ、あかね。わたし、ちずると耕太の仲、ミトメてるから。だってわたし、耕太のアイジンだもん」  むん、と誇らしげに胸を張る。平らではあったが。 「そ、そう。よくは理解できないけど……」  そのとき、たったった、と、目の前のドアに足音が迫った。 「——耕太くーん! かーえろ!」  笑顔とともにあらわれたのは、ちずるだ。  望とあかねを見るなり、露骨に表情を変えた。眉《まゆ》が目元にぐいっと迫る。 「なによぅ、あなたたちぃ」 「ち、ちずるさんこそ、いきなりなんですか!」  さらにいいかえそうとしたあかねを無視して、ちずるは教室のあちらこちらに視線をやった。その表情はまた元の笑顔に戻っている。 「耕太くーん、耕太くーん?」  見られた生徒たちは、ぎこちなく笑い返したり、身体を強《こわ》ばらせたり。やだー、源《みなもと》センパイと目があっちゃったー、と喜ぶ女生徒も、いたりした。  最後にちずるは、しかたない、といっただるそうな顔で、望とあかねを見た。 「ねえ、耕太くんは?」 「オトコドーシ、タマナシ禁止、だって」  望《のぞむ》の言葉に、ちずるは、はあ? と声をあげた。  耕太を引き連れて、すでにたゆらは学校の外にまででていた。  もう耕太を引きずってはいない。ただし首根っこはつかんだままで、そのために耕太をよたよたと横歩きさせながら、フェンスごしに校庭が見える歩道を歩いている。 「ね、ねえ、たゆらくん! ぼくたち、いったいどこまでゆくの?」  耕太の頬《ほお》は赤かった。  廊下、下駄箱《げたばこ》、そしてこの通学路と、ほかの生徒たちの視線のなか、首根っこつかまれたままでずっと進んできたからだろう。引っぱるたゆらはまったくもって平気だったが。  たゆらは耕太をちらりと見て、その襟首から手を離してやった。 「耕太、おまえ——もうアレは買ったか?」 「アレ?」  がんばってよれよれになった襟首を伸ばしていた耕太が、顔をあげた。 「アレったら……アレだよ。ほれ、あの……アレ。わっかんねーかな、今日は三月七日だろ? 一週間後の、三月十四日は、アレ……」 「ぜんぜんわかんないよ、たゆらくん……まさか、えっちな意味?」 「おれとおまえを一緒にするな」 「な、なんでぼくが!」 「——あまえんぼさん」  ふぎ、と耕太は奇妙な声をあげた。 「おまえ、おれが気づいてないとでも思ってたのか? 自分たちの部屋のなかだけならともかく、図書室……化学実験室……音楽室……用具室……屋上……あれか。学校はおまえらのプレイスポットか」 「あ、い、う」 「それに、おれはちずると一緒に住んでるんだからな。あいつが最近、やたら水着を買ってきてることも知ってるんだぜ。なんだ? こんどはどんなプレイやってんだ、おまえら」  あううー、と耕太は真っ赤になってうつむいた。 「ま、それはともかく……だな」  いまたゆらが訊《き》きたいのは、バカップルのバカプレイではなかった。 「だから……アレはどうしたんだよ」 「ぼ、ぼく、ちずるさんとは、まだ、そんな……アレなんて、は、早い……」 「だーかーらー、勘違いするなよ! ヘンな道具のことじゃなくて、ホワイトデーのお返しはもう買ったのかって訊いてるんだよ!」  ふえ、と耕太は顔をあげた。  まだ頬《ほお》の赤みこそ抜けきってないものの、なんだ……とゆるゆる息をはきだす。 「ぼく、てっきり……」 「てっきり、なんだよ」 「え」  耕太はわたわたとあわてだした。ち、とたゆらは舌打ちする。  だから、バカップルのバカプレイなんか、知りたくないっつーの! 「耕太! ホワイトデーのお返し、買ったのか、買ってないのか、どっちだ!」 「か、買ってません!」 「じゃあ、どんなものを買うつもりだ!」 「ど、どんなの? え、えーと……ホワイトデーといったら、やっぱり、クッキーとか、キャンディーとかだよね?」  こいつ……。  たゆらはじと、と耕太を見おろした。  ホワイトデーのこと、まったく意識になかったな?  まあいい、と考え直す。むしろそのほうが、たゆらにとっては好都合だった。 「どんなクッキーを贈るつもり……いや、ぶっちゃけ、いくらぐらい使うつもりだ?」 「い、いくら? お金のこと? えー……うーん、あまり高いものを贈っても、かえってみんな、困ると思うから……」  みんな[#「みんな」に傍点]、ね……。たゆらの唇の端がゆがんだ。 「ひとり、千円くらい……?」  おずおずとうかがってきた耕太のおでこに、ぎりぎりと親指でしぼった中指を近づける。  思いっきりデコピンした。  ふぎゃ、と耕太はうずくまる。うめいた。 「な、な、なにするのー? え、せ、千円じゃ、安かった?」 「いーや? 身も心もお子さま、性体験だけは大人な、いわば激渋激辛お子さまランチな精神のおまえにしちゃ、まあ上出来なほうだ」 「激渋激辛お子さまランチ……」 「問題なのは……みんな[#「みんな」に傍点]におなじ金額のものをお返ししたら、勘違いされちまうかもしれないだろ、ってことだよ」 「勘違い?」 「そうだ。わかんねーかな? おまえの本命はいちおう、ちずるだろ」 「いちおうじゃなくて、ぼくの恋人はちずるさんだよ」 「おまえにはアイジンだっているじゃねーか。……あー、わかったわかった。ハイハイ、純愛なんですね。そりゃよかったよかった。まあ、それはともかく、あのふたりをのぞけば、あとは義理チョコなわけだろ?」  うー、と唇をかんでいた耕太だったが、やがて、うん、とうなずいた。 「あとはぼく、朝比奈《あさひな》さんからしかもらってないから……朝比奈さんは、義理だと思うし」 「義理に決まってんだろ! ふざけんな! みんなおまえの総取りか!」  たゆらはついつい声を荒げてしまった。  驚きのあまり、眼《め》をまんまるにしている耕太に背を向け、たゆらはすーはー、すーはー、と深呼吸をした。  落ちつけ、落ちつけ……。 「……だから、だな。贈ったのは義理チョコなのに、ちずるとおなじものを返してみろ。万が一、本当に万が一だが、相手が勘違いしちまうかもしれねーじゃねーか。本命の彼女とおなじものをくれるなんて、まさかあのひと、わたしのことを……」 「まさかあ。朝比奈さんにかぎって、そんなことないよ」 「おれだってそう思いてーよ、この第二関門!」  思わず振り返ってしまう。 「だ、第二関門?」 「いいか、小山田耕太!」  たゆらはびし、と耕太の鼻先に指先を突きつけた。 「ちずるや望《のぞむ》に関しては、おれはなんにもいわねえ。だがしかし、だがしかし! 朝比奈については、あきらかに義理チョコへのお返しだとわかる、しょっぼーい、ゴミみたいなやつを渡せ! それこそがマナーだ。人としての守らねばならないルールだ!」 「えー……そんな、差別するみたいで、ぼく、いやだよ」 「バカめ。差別がどうした。平等なんざ幻想なんだよ。この世は世知辛《せちがら》いんだよ! よーし、いいだろう。おまえみたいな、優しさがかえって相手を傷つけることすら知らないド偽善者ヤロウには、このおれじきじきに正しいホワイトデーのプレゼントというやつを教えてやろうじゃないか!」 「教えるって、いったい……わ、わわ!?」  たゆらは耕太の首根っこを引っつかんだ。 「ロンよりショーコだ! いま買え! すぐ買え! プレゼント!」 「えー!? だって、お、お金……」 「そんなもん、おれが貸してやる! むしろ借りろ、おれから!」  たゆらは強引に耕太を引きずってゆく。  クラブ活動が盛んなグラウンドを脇《わき》にして、彼らが街の方角に向かっていなくなった、そのあとで——。  校門の陰から、三人が姿を見せた。  ちずる、望、あかねの三人である。 「ふふっ、あのバカ、余計なことしちゃって……耕太くんにデコピンしたのはあとできつちり三倍返しだけど、ま、いまは見逃してあ、げ、る」  にまにまと笑うちずるの横で、望《のぞむ》はあかねを揺すっていた。 「ねーねー、あかね、あかね。ほわいとでーって、なあに?」 「ホワイトデー……? ねえ、望も、それとちずるさんも、なに? あのふたりの会話、聞こえたの? だって、こんなに離れていたのに……地獄耳にしたって、いくらなんでも」 「まあまあ、いいからいいから」  疑問顔のあかねを、ちずるが笑顔でなだめる。 「ちっともよくは……」 「そうだ! たまにはわたしたちだけでケーキでも食べにいきましょうか? 気分がいいからおごってあげる。それともなに? まさか寄り道は禁止です、びしー! とかいうつもり?」 「わたしは小学生じゃありません!」 「ねーねー、ちずる、ちずる。ニク食べても、いーい?」 「好きなもの食べればいいでしょ。でもね望。肉ばっかり食べてると、だんだん体臭がキツクなるっていう話よ? いいの、雨に濡《ぬ》れたノラ犬みたいな匂《にお》いになっても」 「わたしクサクないよ。ちずるのほうがクサイよ」 「あなたの鼻で嗅《か》がれたら、風呂《ふろ》あがりだってクサクなるでしょうが。ま、いいけど。だって耕太くん、わたしの匂い、好きだっていってくれるもん……」  うっとりしだしたちずるに、あかねの眼鏡がキラリと光る。 「ちずるさん、エロスは——」 「はいはいはいはい、エロスはやめて、早くケーキ食べましょ。たくさん食べて、もっと胸にお肉をつけたほうがいいひとたちもいるしね」 「な! なな! 失礼です!」 「事実でしょ?」 「事実ゆえに失礼なんです! 名誉《めいよ》毀損《きそん》!」  ちずるに背中を押されながら、あかねは怒った。 「ああ、一週間後が楽しみ、楽しみ!」  ちずるは笑顔でそういった。「一週間後?」と首を傾《かし》げるあかねを、かまわず押してゆく。望はニク、ニク……とつぶやきながらついていった。      3  たゆらと耕太は、街の大通りを歩いていた。  三月にもなると、だいぶ冬の寒さはゆるんでいる。街のディスプレイはすっかり春一色になり、道ゆく人々の姿も、一枚、また一枚と薄く、華やかなものに変わっていた。  たゆらの心もうきうきだった。  なんといったって、あとは後ろをついてくる激渋激辛お子さまランチに、テキトーなプレゼントを買わせるだけなのだから。それで第二関門は突破だ。  あとは、最終関門。  どうやって、彼女に自分のプレゼントを渡すか——。 「ねえねえ、たゆらくん、たゆらくん」  やはりさりげなく、なんでもないことのように渡すほうがいいか。それとも、ここは一発、覚悟を決めて、こ、ここ、告白を——。 「たゆらくんったらあ」  いやいや、まだ早い。あわてるな。  彼女がくれたのは、どう好意的に見ても義理チョコだ。軽い気持ちの相手に、そんな重いものをぶつけてしまったら、きっと引かれて、すべてが台無しに——。 「たゆらくん、たゆらくーん?」 「だー、なんだよ、人が考えごとしているときに、この激渋激辛お子さまランチが……オシッコか? だったらそこいらの物陰でシーっと……お?」  たゆらは口をOの字にした。  ビルの軒先にしゃがみこんだ耕太が、手招きをしている。  耕太の前には、頭にバンダナを巻いた女性がいた。ジーンズに派手派手なキャミソールといった格好で、年はあきらかに耕太より上だ。  印象的なのは目つきで、やたら細い。日だまりでうっとりと昼寝する猫のようだ。  そんな猫目お姉さんは、地べたに黒いシーツを広げていた。  シーツの上には、銀色の小物が並べられ、銀と黒のコントラストを作っている。指輪、イヤリング、チョーカー、ペンダント……いわゆる、シルバーアクセサリーのたぐいだ。 「ほらほら、たゆらくん、あんまり高くないよ、これ」  たしかに安い。  値札を眺めて、たゆらはふん、と鼻を鳴らした。この金額から考えて、本物の銀ではないのだろう。銀メッキをほどこして、それらしく見せているだけのものだ。 「——いくぞ」  たゆらは耕太の襟首をつかんで、強引に立ちあがらせた。 「わ、わわ……ちょっと、たゆらくん、どうして? こういうの、ホワイトデーのお返しに、ダメ? あれぐらいならぼく、予算だってどうにか」  ダメなことはない。  女性はアクセサリーを好む。なにより、どんなチープなものであれ、好意をもった相手からのプレゼントならばとてもうれしく思うものだ。そういう意味では、なかなか目のつけどころがいい。  だが、だからこそダメなのだ。  そんなもん、アイツにプレゼントでもされてみろ——万が一が、万が一があるかもしれないじゃないか! 「耕太、おまえはな、黙ってクッキーでもプレゼントしてればいいんだよ。それが健全な高校一年生ってもんだ。高校生は、高校生らしく! びしー! エロス禁止!」  たゆらはアイツの真似《まね》をしつつ、耕太を引っぱった。  しかし、耕太はついてこない。  生意気にも逆らいやがるのか、コノヤロウ、とたゆらはかっとなって振りむいた。 「耕太! そんなに、そんなにおまえは朝比奈《あさひな》に——あん?」 「たゆらくん……」  耕太は、「困っちゃったよぼく」といった顔をしていた。  眉《まゆ》をなよなよさせたその顔から、たゆらは足元に視線を移す。耕太のズボンは、銀色の指輪やブレスレットをつけた、細いしなやかな指先につかまれていた。 「まあまあ、ちょっと待ってよ、そこのおふたりさん」  バンダナのお姉さんが、身体を伸ばして、片手を地面について商品を乗りこえ、耕太をがっちりと捕まえていたのだった。  お姉さんは、その猫のような目つきを、にいっと笑顔のかたちに曲げる。 「ちょっとした手品、見せてあげるからさ」 「……手品?」  お姉さんの視線——細いのでよくわからないが——が、耕太を向く。 「まずは、こちらのお兄さんから」 「ぼ、ぼくが、お兄さん?」 「おいおいおい、おれとこいつは兄弟なんかじゃねーよ。だいたい、いくら勘違いするったって、普通はどう見てもおれが兄貴で、こっちが弟だろう」  うんうん、とうなずく耕太のズボンをつかんだまま、かくん、とお姉さんが首を曲げた。 「……あなたの名前は、小山田耕太。薫風《くんぷう》高校に通う、高校一年生」  うつむいたまま、つぶやくように声を洩《も》らす。  耕太はびく、と震えた。 「どうして、ぼくの名前……」 「耕太くんは、三人の女性にホワイトデーのお返しをしなくてはならない。ひとりは……髪が長く、眼《め》は狐《きつね》のようにややつりあがって……ずいぶんと色っぽい人……ん? んんん? スクール水着にエプロン? なんかすごいことしてるんだね……え、えーと、もうひとりは……銀髪に、スレンダーな感じで……へ? アイジン? 耕太くんって、本当に高校生? ちょっとただれすぎてないかい?」 「ど、どど、どーして、そんなことまでわかるんですか!」 「ふふ、さてどうしてかな? で、最後の子は……眼鏡に、おでこに、ああ、この子はすごくまじめそうだ。でもまさか、この子までお兄さんの毒牙《どくが》に——」  ていっ。  たゆらは、耕太のズボンをつかむお姉さんの手を、指で払った。やん、と声をあげたお姉さんを、まじまじと見おろす。 「おまえ……まさか、おれたちとおなじ」 「つぎは弟さんのほーう?」  お姉さんはさっき自分の手を払ったたゆらの指先を、きゅっとにぎりこむ。 「——お、おい、待て、ちょっと」 「弟さん……源《みなもと》たゆらくんは、へえ、ずいぶんとお返しする相手がいるんだねえ。……あら、でももう、それぞれのぶんのプレゼントは買ってあるんだ。やっぱモテる男は、顔だけじゃなくて、こういうマメなところが違うねえ……おや? でも、特別な子がひとり——それは、あれ? さっきの眼鏡の——」 「黙れ」  お姉さんは、ぱっとたゆらの指から手を離した。  もしも彼女が自分の指から手を離さなかったら、もしもこのまましゃべりつづけたなら、たゆらは拳《こぶし》を女の顔に叩《たた》きこむつもりでいた。すでに左拳は固めてあった。  にゃははははー、とお姉さんは笑う。 「ごめんねー、ついついやりすぎちゃったかなー」 「——いくぞ」  おろおろしている耕太に視線をちらりとだけやって、たゆらは歩きだした。 「わたしー、千里《せんり》っていうんだー。お仲間さん、まーたねー」  背後からかけられた女の声に、たゆらは舌打ちを洩《も》らす。足早になって、道ゆく人々を強引に追いこしていった。 「た、たゆらくん、どうしたの、いきなり」  耕太が追いすがってきた。 「まだ気づいてないのか、おまえ……すこしはおれたちの気配、感じとれるようになったんじゃなかったっけ?」 「おれたちの気配……って?」  ノーテンキな顔の耕太に、たゆらはため息をつく。  口をぱくぱくと動かした。  よ、う、か、い、と。 「——妖怪《ようかい》!?」  バカ、声がでかいとたゆらは耕太を睨《にら》む。あ、と耕太は口を両手で覆《おお》った。そのままで「まさか」といった。覆っていたので「まふぁか」と聞こえた。 「嘘《うそ》だと思うんなら探ってみろよ——ほれ」  振りむくと、バンダナお姉さんはたゆらたちを見ていて、あの猫目でにこやかに手を振っていた。け、とたゆらは吐き捨てる。耕太はおずおずと手を振り返した。 「……本当だ。あの人、そうだ」  耕太は眼《め》を見開き、振っていた手を止める。 「……ほう。マジでわかるんだな、おれたちの気配」  うん、とうなずく耕太。なんかうなじがざわざわとするんだよね、と答えた。  内心たゆらは舌を巻く。  化《ば》け狐《ぎつね》である姉、ちずるにとり憑《つ》かれるうちに、ニンゲンである耕太が、自分たちにすこしずつ近づいてきている——と、かつてたゆらは姉自身から相談されたことがあった。  とはいえ、実際に妖気《ようき》を探ったところをまのあたりにするのは、これが初めてだ。  ヤロウ……。  なぜか、たゆらは耕太にいらだちを覚えた。 「でも、たゆらくん……ああいう人たちが……妖怪《ようかい》さんが、街のなかに普通にいるなんて」 「は?」  ささくれだっていたたゆらの心が、たるんとゆるむ。 「なにいってんだおまえ? そんなもん、そこいらにいるだろうが」  ええええ? 耕太は驚く。 「あのな……太古の昔っから、おれたちみたいのは人の世にひそんでいると相場が決まっているんだよ。たしかに〈葛《くず》の葉《は》〉は妖怪《おれたち》を捕らえてる。だけどな、なんにも悪いことをしてない、それか悪いことをしててもバレてないようなやつらは、普通にニンゲン社会で生きてるんだぞ。おれやちずるだってそうだ。〈葛の葉〉に捕まってあの学校にぶちこまれるまでは、フツーにふたりきりで生活してたんだから、よ」  たゆらは「ふたりきり」に力をこめてみた。やはり耕太は気づかない様子だったが。 「そっか……そうだよね。どうしてかな、学校にしか……薫風《くんぷう》高校にしか、たゆらくんたちみたいな人はいないもんだと、すっかり思いこんじゃって」 「まあ……あそこのやつらは濃いからなあ。エロボケ女ちずるにボケボケ狼《おおかみ》の望《のぞむ》、マネートレード番長|熊田《くまだ》とバカの桐山《きりやま》、油とろとろ澪《みお》ちゃん、二重人格教師|砂原《さはら》に暴力竹刀教師|八束《やつか》だもんなあ。まったく濃い濃い。どろどろだぜ」 「八束先生は人間だし、たゆらくん……自分のことを棚に」 「それにしても耕太、おまえ、まだまだニンゲンの部分、残ってたんだな。街中にいるやつらの気配すら、わからないなんてさ」 「そ、それってどーゆー意味!? ぼくは正真正銘、人間だよ!」 「いや……てっきりおれは、もっともっとおまえがニンゲンばなれしてるもんだと」 「——それ、ちずるさんから聞いたの?」  耕太はまっすぐに見あげてくる。  なぜか気圧《けお》されて、お、おうと答えたたゆらに、耕太はにっこりと微笑《ほほえ》みかけてきた。 「だいじょうぶだよ。あれからずっとちずるさんとはひとつになってないし。だから、前よりはだいぶ人間に戻ってるんだ。気配だって、集中しないとわからないし」  ざわ、とたゆらの心はざわついた。 「……おまえ、それ、おれじゃなくってちずるにいってるだろ」  いらだちまぎれに、たゆらは耕太のひたいをデコピンした。  子犬のような悲鳴をあげてうずくまった耕太に、背を向ける。たゆらはなんとなく、自分のいらだちの理由を理解した。  耕太が強くなるのが気にくわないのだ。  自分たちに近づくということは、ニンゲンである耕太が妖怪《ようかい》の力を手に入れるということだ。いまのいらだちは、小生意気に器の大きなところを見せられたからだった。  だんだん、アイツにふさわしくなってきやがる……。  アイツが姉、ちずるなのか、それともあの少女なのか、たゆら自身にもよくわからない。  どっちにしたって腹立たしい。けっ。 「おまえがいくらニンゲン宣言したってな、さっきのサトリは仲間だと思ってるぞ」 「さ、さとり?」  耕太はおでこを押さえつつ、たゆらを見あげてくる。その眼《め》は涙目だ。 「わからないか? さっきのアクセサリーを売ってた女だよ。ほれ、バンダナの……こーんな猫目の」  たゆらは目尻《めじり》に指を当て、にゅいん、と細くした。 「あ、あのひと……あれ? あのひとって、猫又さんじゃなかったの?」 「おまえ、目つきだけで判断してるだろ……あれはな、たぶんサトリっつって、人の心を読むやつらだよ。超能力者っていったほうがわかりやすいか。なんつうの、テレパスってやつ?」  へえー……と感心した様子の耕太だったが、ふいに眼を見開き、続けて頬《ほお》を赤くした。 「も、もしかして、ちずるさんのことや、望《のぞむ》さんのこと、知っていたのは」 「おまえの心を読んだんだろ。当然、いろいろえろえろ、知られまくっただろーな」  おれの心のなかもな……とたゆらは苦い顔をする。  うなだれた耕太の前で、ぽりぽりとこめかみをかいた。 「サトリのなかでも強い力をもったやつなら、見ただけで相手がなにを考えているのか読めるみたいだけどな……あの女はそこまでじゃないらしい。ほれ、いちいちおれたちの身体に触ってただろ? あれはそうしないと読めないからだな」  ん、とたゆらは気づいた。  自分のことを弟、耕太を兄としてあつかったのは、ちずるとの関係を読んだからなのだ。耕太とちずるが夫婦になれば、必然的にたゆらは耕太の義弟に……。  冗談じゃねーぞ、おい。 「……でも、おしかったかな」 「なにがだよ? おまえ、ああいうのがタイプ? ホント、年上に弱いな」 「ち、違うよ! あの人が売っていたアクセサリーのことだよ! えっと、千里《せんり》さん、だっけ……あの指輪とか、イヤリングとか、けっこうちずるさんや望さんに似合うと思うんだ。そうそう、朝比奈《あさひな》さんには髪留めとかどうかな」 「……なんだと?」 「ほら、朝比奈《あさひな》さんはいつも髪をきっちり分けて、髪留めでとめてるじゃない? あの、おでこをだした……」  たゆらの脳裏に、あの剥《む》きだしおでこが浮かぶ。 「……うん。いいよな、あのデコ。つるんとしてさ……触りてえ」  は、と我に返り、口元のよだれをぬぐった。 「あぶねえあぶねえ!」  たゆらは耕太の胸元をつかみ、持ちあげた。 「あぶねえといえばおまえだ! そんなこと企《たくら》んでたのか! か、髪留めプレゼントなどと、逆転満塁ホームランな手段を、おれですら思いつかなかった手を思いつきやがって……耕太! なんて恐ろしい子!」 「ぐ、ぐるじいよ、だゆらぐん……」  耕太は地面から浮きあがった足をぱたぱたとさせていた。  たゆらは耕太を捨てる。 「よし、いいだろう!」  地面の上に転がって咳《せ》きこむ耕太に、指先を突きつけた。 「おまえに見せてやる、おれの朝比奈へのプレゼント……思い知れ、圧倒的なレベルの違いを! そしてあきらめるのだ、すべてを! 絶望の底に転がれい!」 「あの、たゆらくん、ちょっと、話がよく……な、なに? なんなのー?」  たゆらに引きずられるまま、耕太は人でにぎわう大通りを突き進んだ。  わあ、と耕太が声をあげた。 「ぼく、こういうところ、くるの初めてだ」  たゆらは、通りにあった漫画喫茶のなかに飛びこんでいた。  受付をすませ、きょろきょろ店内を見回す耕太を引っぱって、まっすぐパソコンコーナーへと向かう。漫画喫茶という名前ではあったが、漫画だけでなく、インターネット、食事、さらにはマッサージなんてサービスまである店だった。 「あ、三国志だ……」 「あとにしろ、あとに」  たゆらはパソコンの前に座り、おぼつかない手つきでキーボードを操作しはじめる。  人さし指で、ちょん、ちょん。  とあるサイトを表示させた。さらに操作。ちょん、ちょん。 「——どうよ。これがおれが朝比奈にプレゼントする品物だ」  画面に映っているのは、外国のアクセサリーショップのページだった。  耕太は眼《め》をぎゅっと細め、銀の指輪が映った画面を睨《にら》みつける。 「……ねえ、ぜんぶ、英語だよ」 「あたりまえだろ、アメリカはニューヨークのオンラインショップなんだから」 「あ、あめりか? にゅーよーく? おんらいん?」  ヘへ……たゆらは得意げに鼻の下をこする。 「こういうアクセサリーはな、外国で買ったほうが、そこいらの店で買うよりも安く手に入るんだよ。それよりなにより、いいのはデザインだよな。日本じゃまず売ってない、特別な、ただひとつだけのものを贈ることができる……ふっふっふ」  たゆらは耕太に勝ち誇った。 「へー……あ、でも、いいの? 義理チョコにこんな豪華なもの、贈って」 「な、なぬ?」 「だってたゆらくん、いったじゃない。義理チョコをくれた相手に、本命の人とおなじものをお返しするなんてことしたら、自分のこと好きなんじゃないかってその子が勘違いしちゃうもしれないって……だからぼくには、安いのを買えって」 「そ、そうだっけか?」 「そうだよ。たゆらくんがもらったのは、ぼくとおなじで、義理でしょう?」 「……ああ、義理だよ。そしておまえのより、小さかったよ」 「え?」  もうたゆらの口元には、勝利の笑みは浮かんでいなかった。 「ああ、ああ、悪かったな、たしかにおまえがもらったのよりも、おれのチョコは小さかったよ! でもな、そのぶんな、あ、愛情がつまってな……くー!」  目元に腕を当ててうめくたゆらを、まわりの客がなんだなんだと見つめてきた。 「た、たゆらくん……ぼくはそんなこと、ひ、ひとことも」  顔から腕を外して、たゆらは両|眼《め》を光らせる。ぎろ、と睨《にら》みつけた。耕太は、う、とびくつく。  たゆらは深く息をはいた。 「べつに、な。そんな高いもんじゃないんだよ、これは。というか、なるべく控えめな金額で、なるべくいいものを買うためのアメリカ直輸入だ。だから、見た目と違って、そんな豪華なもんじゃあないんだよ」  へえ……とパソコンの画面を見つめ、感心した様子の耕太。  もちろん嘘《うそ》である。  指輪の値段はもとより、送料もふくめ、けっこうなお値段であった。 「そういえば、アメリカ直輸入って、つまり飛行機で送られてくるんだよね? だいじょうぶなの? 時間かかるんじゃない?」 「ホワイトデーにまにあうかってか? きちんと計算に入ってるよ。注文してから、だいたい十日ぐらいかかるってことでな……そろそろ届く予定だ」  たゆらは以前にもいちど頼んだことがある、と説明した。  制服のズボンからサイフを取りだし、そのサイフとベルトをつなぐチェーンを見せた。シルバーのウォレットチェーンである。 「郵便局に、局留めで送るように頼んだからな。昼に確認の電話はしてみたけど、やっぱりまだきてなかったな」  しげしげとチェーンを見ていた耕太が、「局留め?」と顔をあげる。 「自宅じゃなくて、近くの郵便局に届けてもらって、そいつを自分で取りにゆくサービスのこった。あん? なんでそんなことするのかって? そりゃおまえ、ちずるに指輪なんか買ったのを知られてみろ、わたしにも買えって命令されるに決まってるだろ」 「命令、なんだ……」  でも、そうか、ちずるさん、指輪欲しがるのか……と耕太はつぶやく。  化《ば》け狐《ぎつね》であるたゆらはしっかり聴きとって、こいつ、またよからぬことを企《たくら》んでやがるな、と口元をゆがめた。 「ま、ともかくだ! おまえは早く朝比奈《あさひな》あてにチープなプレゼントをだな」  そのとき、店内にどよめきがおこる。  なにやら店内そなえつけの大型テレビの前に人だかりができていた。  たゆらと耕太が覗《のぞ》きこむと——。 「ハイジャック?」  ニューヨークはJ・F・ケネディ空港から飛びたった日本ゆきのジェット旅客機が、飛行中になにものかに占拠、ハイジャックされたとのことだった。  緊迫した口調でニュースを伝えてくるキャスターに、耕太は「へえ、怖いなあ」とのどかな感想を洩《も》らす。  たゆらの心は、べつの意味で胸騒ぎを覚えていた。 「まさか……」  ニューヨークから、日本ゆきのジェット旅客機だと?  携帯電話を取りだし、ダイヤルする。呼びだしているあいだ、いらいらと足のつま先で床を鳴らした。こつこつこつこつ。 「お、でたでた……はろーはろー!」  英単語を並べたてただけの、でたらめな文法の英語で会話をしだす。耕太はそんなたゆらを尊敬のまなざしで眺めた。 「だーかーらー、どの便の飛行機でおれの指輪が送られたのか、調べろっつってんだよこのヤンキー! はいじゃっくはいじゃっく! てぃーちみーぷりーず!」  電話を切り、いらいらいらいらと、たゆらはその場をうろつきだす。  テレビのまわりにいた客たちは、しばらくは興味深げにたゆらを見つめていたが、やがて飽きた。ハイジャックのニュースも進展がないとわかり、それぞれ、テーブルや本棚など、各自の居場所に戻ってゆく。  耕太も本棚から三国志を持ってきて、読みだした。  黄巾賊《こうきんぞく》が討伐されたあたりで、たゆらの携帯が鳴った。どんなメロディーかわかる前に、たゆらは電話にでる。早撃ち〇・三秒ないきおいだった。 「おーいえー、おーいえー、で、なに? わかったのか?」  ふんふん、ふんふんと聞いていたたゆらの顔色が、変わる。 「やっぱりかー!」  こうしちゃいられない、と耕太の襟首を引っぱってゆくたゆら。 「ああっ、なんか太った悪いひとがでてきたところなのにっ」 「あとで読め、あとで!」  テーブルの上に三国志五冊を残して、たゆらと耕太は漫画喫茶から飛びだした。 「ええ? ハイジャックされた飛行機に、たゆらくんの指輪があるの?」 「おうよ! このまま中近東にでも飛ばれてみろ! ぜったいにホワイトデーにはまにあわねーぞ!」 「わあ、大変だ! ……けど、どうするの? それって、ぼくたちにはどうしようもないんじゃあ」  日の暮れかかった大通りの人混みを、たゆらと耕太は駆けていた。 「どうにかするんだよ——おれとおまえで!」 「なるほど、たゆらくんとぼくで……って、なんでぼくまでー!?」  途中、路上でアクセサリーを売っていた猫目お姉さんの前を通りがかる。がんばってねえ、と手を振るお姉さんにかまう余裕は、たゆらと耕太にはなかった。      4  薫風《くんぷう》高校。  人間の生徒に混じって、ひそかに妖怪《ようかい》が通う学校。  彼ら妖怪は、そのほとんどがなんらかの罪を犯し、〈葛《くず》の葉《は》〉という組織に捕らわれたものたちだった。うち、刑務所に入るまでもない、いわば不良程度の妖怪たちが、人の世界での正しい生きかたを学ぶために、学校生活という名の刑に服しているのだった。  そんな不良妖怪たちの、たまり場。  校舎三階の奥にある、元視聴覚室に、巌《いわお》のような大男がいる。  妖怪たちの長、番長の熊田《くまだ》流星《りゅうせい》だ。左|眼《め》に星のような十字の傷跡をもった、ごつごつした体つきの彼は、窓から沈む夕陽《ゆうひ》と、それに照らされた街なみを見つめている。 「もうすぐ卒業式……そうなれば、三年生はみな、もうここからこんな景色を見ることもなくなるわけだな」  ふふ、と寂しげに笑う。 「熊田《くまだ》さん……」  彼のまわりには、数人がつき従っていた。数人、というのは、いまいち存在のはっきりしないものたちがいるからである。人前にでるのが嫌いなのか、夕陽《ゆうひ》が作りだす影のなかにいたり、天井に張りついたり、人の後ろに隠れたりしていた。  存在が明らかなのは、六人。  細長いメタルフレームの眼鏡をかけ、髪をかっちりと固めた細身で長身の男。熊田には負けるが、立派な体格を持つ、丸サングラスをかけた筋肉質な男。熊田以上の大きさで、しかし丸々と太った男、反対にやたら小さい、小学生みたいな外見の少年。そして、とんがり頭の少年、桐山《きりやま》とおかっぱ頭の少女、澪《みお》である。 「く、熊田さんの卒業、おれ、うれしいけど、かなしい……」  ぐす、と桐山が鼻をすすった。 「ふ……なにを弱気なことを。わたしたちが卒業すれば、おまえたちが三年生になるのだぞ? 最上級生として、校内の妖怪《ようかい》たちを統率せねばならん……とくに桐山よ、おまえはつぎの長……番長になるのだからな」 「お、おれ、やっぱり、番長ムリ……自信、ない」 「ならば、小山田にでも頼もうか?」  弱気一色だった桐山が、とたんに目尻《めじり》をつりあげる。 「な! なんであのバカップルのかたわれが! バかたわれが!」 「強さだけなら、校内一、だからな」  桐山をのぞく全員が、深くうなずいた。 「そ、そんなことない! あいつ、源《みなもと》エロオンナいないと、ザコ!」  さて、それはどうかな、と熊田は楽しげに微笑《ほほえ》む。いきりたつ桐山に、深い色の右|眼《め》を向けた。 「いくら強い力を持とうとも、小山田がそれを支配のために使うことはあるまい。小山田は優しすぎるのだ……ときに長は、非情になれなくてはな。その点、桐山よ、おぬしなら安心だ。こころおきなく卒業することができる」 「……あんまり、ほめられてる気しない、気のせい?」  気のせい、気のせいとまわりがフォローした。 「ぬ?」  と熊田がドアに視線を向ける。  ふたつの影が、ドアを叩《たた》き開け、室内に飛びこんできた。熊田をのぞく全員が、いっせいに闘いの構えをとる。  熊田だけは、にっこりと眼を細めた。 「どうしたのだ、小山田に、たゆらよ」 「大将に話がある!」  緊張をただよわせたほかのものたちには目もくれず、たゆらは熊田に迫った。耕太は膝《ひざ》に手をつき、ぜひぜひと荒い呼吸をしている。 「おまえ、ここ、熊田《くまだ》さんの前、ひかえろ!」  桐山《きりやま》が割って入ってきた。それどころじゃねえんだよ、とたゆら。 「大将の仲間に……こいつらのなかに、移動の得意なやつはいないか?」 「む? 移動とな?」 「そうだ、瞬間移動させる術が使えるとかならベストなんだけど……あれだ、空をびゅーんと飛べるのでもいい。いったいなにがしたいって、いま空を飛んでいる飛行機に——直接、乗りこみたいんだよ!」  桐山と互いに髪や頬《ほお》を引っぱりあいながら、たゆらはいった。 「直接、飛行機に乗りこむ、と……?」  割れ鐘を激しく打ち鳴らしたような音があがった。  熊田の笑い声である。室内にいるもの全員、耳をふさいでいた。 「まったく、無茶なことを考えるものだな。飛行機の速度は……おい、どのくらいだ?」  熊田の問いに、細長い眼鏡をかけた男が答えた。 「その飛行機の種類にもよりますが……ジョット旅客機の場合、時速九百キロ前後でしょう」 「おまけに移動しているのだろう? つまり、時速九百キロ以上の速さで空を飛んでゆきたいと、そういうわけだ」 「——できるのか? できないのか?」  たゆらは熊田を見つめた。 「おまえ、バカ! できるわけない!」  茶化す桐山を無視して、熊田をまばたきもせず見続ける。  ふ……と熊田が笑う。 「どうだ、馬頭《めず》……」  さきほど答えた、眼鏡をかけた細身の男が、その眼鏡の位置を直した。 「まずは詳細をうかがいませんと。その飛行機は、いったいどんな種類で、いまどこを飛行しているのか。乗りこむ目的は?」 「——なるほど」  馬頭という名の男は、眼鏡の位置を直した。あかねがやるような、フレームの端をつまんで直すのではなく、眉間《みけん》の位置のフレームに中指を当て、くいくいと動かすやりかただ。 「問題はふたつ。うちひとつは我々で解決できます」 「ど、どんな問題だよ」  あせるたゆらを制するように、馬頭はまた眼鏡の位置を直す。 「そのハイジャックされた旅客機まで、移動することは可能でしょう。——天野《あまの》」  おれっスかぁ? と少年が前にでてきた。  その背丈は耕太よりも低く、澪《みお》とほとんどおなじだ。外見がまるで小学生に見えるのも、澪とおなじだった。  眼《め》は丸くつぶらで、髪は短い。ただ、襟足だけは長々と伸ばしていた。  天野《あまの》と呼ばれた彼は、ももんがの妖怪《ようかい》で、風に乗って空を飛ぶことができるという。自分だけでなく、ついでに何人かを一緒に運ぶこともできる……と、馬頭《めず》が説明した。 「あー、馬頭さん、おれの秘密、バラさないでくださいよー!」  馬頭に無表情で見つめられ、天野は口ごもった。 「ま、まあいいですけど、でも、でもね! そんな九百キロなんて速さで飛ぶのはムリだし、何千キロもの長さを飛ぶのはもっとムリっスよ! よっぽどいい風でもなきゃ……」 「風なら問題ない。——桐山《きりやま》」  すっかり協力体制が整った仲間たちに、ひとりふてくされ、教室の隅で澪になだめられていた桐山は、おれ? と振り返った。 「お、おれ、ヤダ! たゆらのバカと小山田のバカ、こいつらバカふたりに協力、おれまでバカになる! ぜったい、ヤダ!」 「べつに協力しろとはいっていない。ただ、天野たちを思いっきり吹き飛ばしてくれればいい。そう……成層圏のあたりまで」  ぎょ、となるたゆら、耕太、天野の三人。 「せーそーけん? よくわからないけど、つまりそれ、地球の外まで吹き飛ばしても、いいのか?」  熊田《くまだ》は笑いだす。 「うむ。飛ばせ飛ばせ、飛ばしてしまえ。星にしてやれ」  とたんに桐山は笑顔になる。 「よし! おまえら、星にしてやる!」 「……おい、馬頭さん、だっけ? あんた一見、切れものっぽいけど、なに? ブチギレのほうのキレものだったのかい?」 「勘違いしてはいけない、源《みなもと》たゆら。桐山に成層圏まできみたちを飛ばすほどの力はない。ここは可能なだけ強力な風を起こさせることが肝要」  くいくい、と眼鏡の位置を直す馬頭。 「さて、これで問題のひとつは解決した。残るはひとつ……」  なんて強引な解決のしかただよ、と文句をいっていたたゆらが、馬頭の言葉に眼を鋭くさせる。 「それだ。なんだよ、あとひとつって」 「旅客機の位置の特定だ。移動し続ける物を探すのは、それが迷子の子供であっても難しい。いま探している旅客機は、時速九百キロで移動し、しかもハイジャックされているがために、おおよその飛行位置すら不明なのだ。それを探すというのは、砂漠に落ちた針を見つけだすようなもの」 「ど、どうにかならないのかよ、おい」 「我々の仲間にも、遠目を使えるものはいくらかいるが……何千キロも離れた場所を飛ぶ旅客機を見つけだせるほどのものは、いない。近づけば目測でも発見できようが、そもそもどこにいけば近づくのかすらわからないのだ」 「何千キロも離れた場所を見る? 千里眼か?」  たゆらは絶望的な思いになった。奥歯を噛《か》みしめ、首を横に振る。 「千里眼、千里眼……そんな力の持ち主は、おれの知りあいにも……」  もうだめか……と、たゆらはがっくり膝《ひざ》をつき、うなだれ、両手を床につけた。 「たゆらくん……」 「ふむ。たゆらよ、あきらめるのはまだ早いようだぞ」  その言葉に、たゆらはぱっと顔をあげる。  熊田《くまだ》が、膝の上に置いたノートパソコンを、グローブのような手で、器用に操作していた。 「ハイジャックの続報が、ニュースで流れておる。ほら」  たゆらは飛び起き、熊田のノートパソコンを覗《のぞ》きこんだ。耕太もとなりに並ぶ。 「わあ、すごい。これ、インターネットってやつですか?」 「うむ。各新聞社による、ニュース速報だ。まあ、これらの記事は、すでにテレビでも報道されておるとは思うがな……ここだ」  熊田の太い指先が、ノートパソコンの画面に映った文字を示す。耕太が読みあげた。 「えーっと、犯人はテロリストで……犯行声明がでて……」 「違う! もっと下だ、耕太!」  たゆらが叫ぶ。 「見ろ、給油のため、現在、ハイジャックされた旅客機は——」 「空港に着陸中!?」  たゆらと耕太は互いに顔を見あう。 「よし、いくぞ、耕太!」  身をひるがえし、たゆらはドアまで駆けだした。廊下に飛びだす。  ——すぐに戻ってきた。 「おまえら! 耕太にバカ山、そしてそこのちっちゃいセンパイ! なんでついてこねーんだよ、早くしねーとヒコーキが飛んでいっちまうだろーが!」 「え……だって、相手、テロリストって……ぼくには無理だよ」 「おれバカ山ちがう! 桐山《きりやま》!」 「おれもちっこいセンパイじゃねー! 天野《あまの》って名前があるんだゾ!」  耕太はおびえ、桐山、天野の先輩ふたりは怒りをあらわにする。 「冷静になることだな、源《みなもと》たゆら」  馬頭《めず》が、中指で眼鏡の位置を直した。 「犯人はテロリスト……となれば、当然、相手が銃器で武装、もしくは爆弾等の所持をしていると考えるべきだ。こちらもそれなりの準備を——」 「準備なんかいるかよ! テロリストごとき、我ら妖怪《ようかい》変化《へんげ》の力をもってすれば……って、そーか、そーだな、ちょくら演劇部によってくか」  演劇部? と耕太、桐山《きりやま》、天野《あまの》の三人が、まのぬけた声をあげた。  学校の屋上。  ほとんど陽は沈みかけ、あたりを夜が包みこんでいた。  そこに並ぶ、三人と一人の影。 「た、たゆらくん……やっぱり、こんないきかたしなくても……普通に空港までいけばいいじゃない」 「バカ、普通に移動したらここから何時間かかると思ってんだよ。んなことしてるあいだに、ハイジャック犯どもがなにをしでかすか……おれの指輪がどうなってもいいのか!」 「ぼくたちの命はどうなってもいいの……?」 「よし、おれ、おまえら飛ばすそ!」  三人からすこし離れた位置にいる桐山が、にこやかな笑顔をとともに、そう宣言した。  彼のまわりに風が吹き始める。みるみるうちに、風はつむじに、つむじは小さな竜巻に変わった。その中心にいる桐山の姿は、強風のため、ゆがんで見える。 「桐山ー……あまり風、強くなくていいからナー? べつに飛んでる飛行機に乗り移るわけじゃないんだから……空港まで飛べればいいんだから、ナー?」 「おまえらみんな、夜空の星にするー!」  天野の不安げな声を、桐山はまったく聞いていない。さらに風は強くなった。 「うう……テロリスト、こわいよう」 「おまえはそのテロリストよりよっぽどこわい女、恋人にしてんじゃねーか」 「い、一年! 口閉じろ、舌かむゾ! こいつ……桐山、バカだからかげんを……」 「夜空の! 星に! なれ!」  ごう、と竜巻がふくれあがった。  竜巻はうねりながら、身をよせあう三人に向かって食らいつく。  うっわー!  大蛇のごとき暴風に巻きあげられ、たゆらたちは舞いあがってゆく。夜空に、きらーん、と星になった。 「……あ、流れ星?」  ケーキをたらふく食った——望《のぞむ》は肉——帰り道、ちずるは夜に沈みはじめた空に、またたく星を見つけた。  祈りだす。 「耕太くんと一線越えられますように、耕太くんと一線……」  食べすぎちゃったかな、と悩んでいたあかねは、ちずるから洩《も》れ聞こえる願いにあきれ顔になった。その横で望は「ニクニクニク……ムネのニク」と星に願いをこめている。その手つきは胸の前で両手をあわせた、いわゆる豊胸体操のかたちであった。      5  旅客機のなかは、凍りついていた。  あまりな恐怖のため、乗客たちはパニックになることもできない。ひたすら息を殺していた。かすかなすすり泣きが聞こえる機内で、唯一動くものは、乗客席の真ん中にある通路に立つ、覆面姿の男たちだけだった。  黒い銃を構えた男たちは、冷たい視線を乗客に投げかけている。眼《め》と鼻と口の部分だけが開いた覆面のために、表情はよくわからない。 「△○×□……」 「@%&#……」  なにごとか、日本語でも英語でもない言葉で会話を交わしていた。  ハイジャック犯が支配する、旅客機——。  その天井が、いきなり突きやぶられた。  すさまじい音とともに、激しく機内が揺れる。照明がなんども明滅し、盛大に巻きおこった埃《ほこり》をちかちかと照らしだした。  旅客機のなかは、またも凍りつく。  さきほどまでの静寂とは違う。乗客はおろか、ハイジャック犯ですら固まっていた。  なにが起こったのか理解できない、そんな様子で、腰だめに構えた銃の銃口を、埃の奥へと向けている。 「いてて……」  天井に開いた大穴、その下の埃のなかから、声があがる。 「せ、センパイ、あんたって……もしかして、飛ぶのヘタクソ?」 「ち、ちがう! あのバカのせいだって! あいつが加減しないでおれたちを吹き飛ばしたから……一年も見てただろ? いつもはちゃんと降りれるって!」 「うう……いたいよう……」  埃のなか、むくりと影が身体を起こした。 「▲+%$■? ◇◎!?」  ハイジャック犯たちが騒ぎだす。  それも当然だろう。特殊部隊による強行突入への構えはあっても、まさか天井に大穴を開けて飛びこんでくるなんて、そんなふざけたやりかたは思いもよらなかったろうから。 「ねえ……こ、ここ、もしかして」 「ああ……大正解、らしいぜ」  ひゅるり、と風が起こった。  埃《ほこり》が舞いあがり、金属片やらコードやらが垂れさがる天井の穴からはきだされてゆく。やがて姿をあらわしたのは——。 「……?」  全身タイツにマント姿の男が、三人、いた。その色は赤、青、黄だ。  おまけに全員、顔にマスクをかぶっていた。  ハイジャック犯たちのような、眼《め》、鼻、口に穴が空いているだけの、いわゆるスキーヤーや登山家がかぶるような、目出し帽ではない。  ひとりは虎《とら》をモチーフにしたマスク、ひとりは鳥で、ひとりは角を生やし……まるでプロレスラーであった。 「☆@▽△○+$%%! &&!」 「うるせえ!」  虎をモチーフにしたマスクをかぶる、赤タイツの男が、銃口を向けてわめくハイジャック犯たちに、びしっと指先を突きつけた。 「なにをいってるのかまったくちっともさっぱりわからないが! とりあえず『な、なんなんだきさまらは』といったことにしよう! ならば返す言葉はこれだ! 『悪党に名乗る名など、ないっ!』」  日本語だ、日本語だよ……と乗客から声があがった。 「そう、おれたちの名は……フォックス仮面!」  名乗った、名乗った……名乗る名はないといっておいて、名乗ったよ……と、乗客がつっこんだ。虎マスクなのに、フォックス仮面だよ……。 「天知る地知る、狐《きつね》知る! おまえの悪事を知っている! 熱き血潮の燃えるおれの名は、だれが呼んだか、だれが呼んだか、うー、フォックスレッド! とう!」  虎マスクの男はポーズをとる。  横向きになって足を開いて腰を落とし、上半身はハイジャック犯たちのほうを向いて、左腕を伸ばし、右腕を引いた。  赤タイツに包まれた腰からは、銀色の毛を持つしっぽが生えている。  マスクの上部からも、銀色の毛なみの耳が飛びだしていた。  狐のしっぽに、耳である。  フォックスレツドは、ポーズを解いて普通に立った。自分の後ろに隠れていた鳥マスクで青タイツの少年を前にだす。 「ほれ、おまえのばんだ」 「ぼ、ぼくも? た、たゆ……じゃなくて、フォックスレッドくん、っていうか——なんなの、この格好と、そのフォックスなんとかって」 「バカ、おれたちの正体をバラすわけにはいかねーだろーが」 「だからって……フォックス仮面……」 「いいから早くやれっての」  うー、と納得いかない様子の鳥マスクの首には、黒い、やたらぼろぼろなマフラーが巻かれていた。よく見ると、ほのかに金色に輝いているようだ。 「ぼ、ぼくは、ふぉ、ふぉ、フォックス……ブルー……」 「おまえ、ホントにブルーになってどーすんだよ!」  ぺし、と叩《たた》かれたフォックスブルーの頭からは、黒い毛の狐耳《きつねみみ》、お尻《しり》からは狐のしっぽが生えていた。 「なー? おれもやらなきゃダメなのかー、そのお遊戯」  子供のような体格の、角のあるマスクをつけて黄色タイツな少年が、レッドとブルーの後ろで声をあげた。 「ああ、あんたはフォックスイエローだ。好物はカレーだ」  ほとんどコントなやりとりをする彼らに、わずかながら乗客から笑いが洩《も》れる。  笑ってる場合じゃないのはハイジャック犯たちだ。おそらく操縦席を占拠していたリーダー格らしい男が、あわてた様子であらわれる。 「○*▲、¥÷#◆! ▲△!!」  銃口を向け、引き金をしぼる。  とっさに押さえこもうとしたたゆ——フォックスレッドの背後から、黒い影が飛びだす。  黒い耳、しっぽのフォックスブルーが、リーダーの指先をつまんで押さえ、続けて銃を取りあげていた。すべてはニンゲンの目にはとまらない速さだった。  ち、とレッドは舌打ちしながら、右腕に炎を走らせる。  薄い紅《くれない》の炎——狐火《きつねび》を振るって、ほかのハイジャック犯たちの銃を燃やした。反射的に燃えあがる炎から手を離してしまい、つまりは燃えあがる銃から手を離してしまったところで、それを奪い、瞬時に気絶させてゆく。  狐火の熱量は術者の意のままになる。  いま銃を燃やしたのは、暴発しないよう、見た目だけの熱くない炎だった。  一人、二人……三人目は、ブルーの耕太が先に打ち倒していた。角マスクのイエロー——天野《あまの》はそれを見て口笛を吹きながら、四人目にフライングクロスチョップを決めている。  レッド——たゆらは、ブルーである耕太を睨《にら》むように見た。  こいつ……強くなってやがる。  前は、ちずるがとり憑《つ》く状態ではない、マフラーを使ってのいわゆる簡易狐|変化《へんげ》では、それほどの強さはなかったはずだ。すくなくとも四ヶ月前、人狼《じんろう》である犹守《えぞもり》朔《さく》とともに闘った時点では、マフラー変化の耕太はたゆらよりも弱かった。  いまは自分とほぼ同等、下手をすれば上だろう。  四ヶ月のあいだに、ひとつ闘いがあった。三珠《みたま》だか美乃里《みのり》だか、男だか女だかよくわからないやつとの闘い……それが彼を、耕太を成長させたのか?  くそ……。 「なに? たゆ——レッドくん、どうしたの?」  耕太はハイジャック犯の銃を集めていた。床に置く。  たゆらは無言で耕太の頭に腕を回した。  締めつける。  ぎりぎりぎりと、プロレス技でいうところの、ヘッドロックをかけた。 「い、痛いよ、なに、レッド、ぼく、なにかした?」 「してるじゃねえかよ、ちず……ピンクと、ナニをいろいろ」 「ふぉ、フォックスピンク? ピンクとは、ぼく、そんな、まだだよ!」 「まだってことはいずれかは? んー?」 「あう、いた、痛い、痛いよう!」  まったくもって腹立たしい。  なにが腹立たしいって、耕太が——自分の成長に、そしてたゆらのあせりに、まったく気づいていないことだ。  くそ、くそ、くそ……。 「ふんぬぬぬ……」 「いたいたいいたいー」  締めるたゆらとわめく耕太に、角マスクの天野《あまの》が口笛を飛ばした。 「仲いーなー、おまえら一年は」 「ちっとも仲良くなんかねえ!」  ここで乗客たちは、ようやく状況を理解した。  自分たちは救われたのだと——。  大歓声があがる。乗客同士で抱きあい、声をあげ、感極まって泣き、興奮に震え、安堵《あんど》に脱力した。  救世主たるたゆらたちにも、感謝しようと立ちあがる。  たゆらはまずい、と舌打ちした。  感謝に応《こた》えるのはいい。まずいのは、会話することで自分たちの正体がバレることだ。なんといっても自分たちは、妖怪《ようかい》の姿や技をニンゲンの前で見せてしまっているのだから——こんなこと〈葛《くず》の葉《は》〉に知られれば、まちがいなく妖怪用の刑務所いきである。 「ほれ、センパイ!」  たゆらの号令に従って、天野が天井の穴の下に立った。たゆらと耕太は彼にしがみつく。  とうっ。  三人いっせいに跳ねて、穴から飛びだし——そのまま、機内に戻ることはなかった。      6  三月十三日——すなわち、ホワイトデーの前日。  放課後、たゆらと耕太は郵便局にいた。  中央郵便局の名がついた、大きな建物のなかである。長々とカウンターが伸び、それぞれに人が順番待ちをしていた。たゆらと耕太も、長椅子《ながいす》に座って呼ばれるのを待っている。 「楽しそうだね、たゆらくん……」  と、耕太は沈んだ顔で話しかけた。 「おう! ようやく例のものに会えるんだからな! まったくやきもきさせやがって……なあ」  無事にハイジャックを解決したはいいが、爆弾類がないかどうかのチェックやらなにやらで、けっきょく、今日まで荷物の配達は遅れたのであった。 「もしもまにあわなかったら、またフォックス仮面に登場してもらうところだったぜ」  その言葉に、耕太はびくんと肩を跳ねあげる。 「や、止《や》めてよたゆらくん! あれからすっごく大変だったじゃない!」  ハイジャック犯を倒した謎《なぞ》のフォックス仮面は、いま人々の話題の中心にあがっていた。耳をすませば、郵便局構内でも、そこいらから「フォックス仮面……」という会話が聞こえてくる。 「まあいいじゃねえか。うまくごまかせたし」 「ちっともごまかせてないよ! ちずるさんには「あの日、どうして変化したの」ってつっこまれるし、八束《やつか》先生にも「正義の味方の気分はどうだ?」って睨《にら》まれるし……砂原《さはら》先生には「わたしは〜、フォックスサンドレディーね〜」ってフォックス予約されるし……バレバレだったじゃないかあ」  耕太は頭を抱える。 「だーいじょうぶだって……すぐ忘れるさ、みんな」 〈葛《くず》の葉《は》〉がどうにかしてもみ消したのか、ニュースでフォックス仮面の存在が報道されることはなかった。が、ネットやくちこみで、どんどん広まっているらしい。正義の味方、フォックス仮面と……。 「お? きたぞきたぞ……待ってな、いま見せてやるよ、指輪」  源《みなもと》さーん、とたゆらの名が呼ばれていた。  スキップしながらたゆらはカウンターに向かう。  荷物を受けとるなり、たゆらは鼻歌を歌いながら包みを開けて、中身を確認し……。  あー! と絶叫した。  ——暮れなずむ街の大通りを、たゆらと耕太は歩いていた。  たゆらはどんよりとうなだれている。引きずるような足どりのその横で、耕太はしかたないよ、と彼をなぐさめていた。 「時期が時期だから……ほら、ホワイトデーが明日だからさ、どこのお店もいま、すごくいそがしいんだよ。ね?」 「そ、それにしたってよ……」  よ、よ、よ、と目元を腕で覆《おお》う。 「朝比奈《あさひな》さんに事情を説明すれば、わかってくれるよ。すこし渡す日付を遅らせれば」 「それじゃ意味ねえだろ! ホワイトデーに渡せないんじゃ……どうしてわざわざハイジャックなんて解決したんだよ!」 「い、いや、それはわかるけど……」  大声でハイジャックの件をわめくたゆらに、耕太はあわてた。ちらちらとまわりの視線を気にしつつ、たゆらをなだめにかかる。 「で、でもでも、指輪のサイズが大きかったのは、だれのせいでもなくて、なんていえばいいのかな、あの、そう、そうだ、不幸な事故だったんだよ。だから」 「いや……おれが悪いんだ」  沈みきったたゆらの声だった。 「外国と日本じゃ、サイズの大きさが違うって知らなかった、おれが悪いんだー!」  ひーん、とたゆらは路上にしゃがみこむ。  耕太はああ……とうなだれた。  そう……アメリカと日本では、おなじ六号というサイズをしめす単位であっても、その大きさが違っていた。アメリカの六号は、日本における十一号だったのである。つまり、かなり大きいサイズの指輪を、たゆらは買ってしまったのだ。  郵便局で——ホワイトデー前日にその事実に気づいたたゆらは、街中の宝石店、アクセサリーショップを駆けずりまわった。  が、どこでもサイズ直しにはそれなりの時間がかかるという。  すべてに絶望したたゆらは、こうして人前であられもない姿を見せているのだった。  耕太はたゆらの腕をとり、立たせる。 「たゆらくん、ほら……まだいってないお店が、どこかにあるかもしれない。探してみようよ」  うう……とたゆらは立ちあがり、耕太にすがるようにして歩きだした。 「あれー? どうしたのー、そこのおふたりさん」  声をかけたのは、あのバンダナ猫目のお姉さんだった。  今日も道ばたでアクセサリーを売っていたらしい。ちょうど片づけを終え、帰ろうとしているところだったようだ。 「あ……ええと、千里《せんり》さん」  千里は、にゃはははは、と笑う。細目をたゆらに向けた。 「で、どうしたのかな? なんかお悩みかい?」 「……また、心を読んだのかよ?」  どんよりした眼《め》で睨《にら》むたゆらに、お姉さんはにゃは、と笑った。 「読まなくったって、そんなの顔を見ればすぐにわかるよー。悩みがあるなら話してみない? なにか力になれるかもよ?」  けっ、とたゆらは通りすぎようとした。 「あのですね……」  かくかくしかじか、と耕太は説明した。 「耕太!」 「だって、千里さんはほら、アクセサリーを扱ってるし……サイズ直し、してくれるかもしれないよ?」 「大切な指輪を、シロウトなんかにまかせられるか!」 「おや、腕はクロウトですぜ、お兄さん」  いいながら、すでに片づけていたアクセサリーを、袋のなかから取りだす。包んでいた布を開くと、夕陽《ゆうひ》に銀がきらめいた。  たゆらは手にとり、しげしげと眺める。 「……なるほど。腕は悪くないみたいだな」 「でしょ? でしょでしょ?」  むう……。  たゆらの胸のなかで、天秤《てんびん》がぐらんぐらんと傾いた。頼むべきか、頼まざるべきか。 「……背に腹は、代えられないか」  ズボンのポケットから、たゆらは指輪の入った箱をとりだした。 「はーい、まいどありー!」 「サイズは……」  指輪の箱を開けて、サイズを説明しようとしたたゆらを、お姉さんが手で制する。たゆらの手に触れ、猫のような眼《め》をにゅー、と細めた。 「……ふんふん、わかった。六号だね」 「まーたおれの心を読んで……って、そんなことまでわかるのか?」  にゃはー、とお姉さんは笑みを見せた。      7  ついに、この日がやってきた。  ホワイトデー当日。教室では耕太が、ちずると望《のぞむ》、それぞれに袋を渡していた。 「わあ、耕太くん、これ、クッキー? ……ああん!」  感極まって抱きつこうとするちずるを、耕太は「ちょっと待ってください」と止めた。ちなみに望は、白いリボンつきの袋を抱きしめ、ふるふると震えていた。 「これも……」  さらに、こんどは黒い、小さな袋を渡す。  ちずるは長いまつ毛にふちどられたまぶたを、ぱちぱちとさせた。望はまばたきもせずに見つめている。 「こ、これ……」  なかには、銀色の指輪が入っていた。  ちずるがつまみあげたそれは、とくに複雑な飾りは入っていない、シンプルなものだった。ワンポイントで、くるん、と八の字が描かれている。 「それ、狐のしっぽをイメージしているそうです」  ああ……と声にならない声をあげ、ちずるは指輪を胸に抱く。  いっぽう、望への袋にはチョーカーが入っていた。黒い紐《ひも》の先に、こちらは狼《おおかみ》をあしらった銀色の飾りがついている。望は、きゅっと唇を噛《か》んだ。 「どうしたの、耕太くん、こんなの……」 「ちょっと、親切なお姉さんとお知りあいになりまして……あんまり高いものじゃないんですけど」  ううん、ううん。  ちずると望《のぞむ》が同時に首を横に振る。 「うれしい……こんな、すてきな——婚約指輪」  ぶふ、と耕太は噴きだす。ちぇ、と舌打ちしながら様子を見守っていたまわりのクラスメイトたちも、とたんに噴きだした。 「こ、ここ、婚約?」 「うん。だってサイズぴったりだし……」  ちずるは薬指に指輪をはめて、その手を天井にかざし、うっとりと眺めた。 「お、お姉さん……」  バンダナ猫目お姉さん、サトリの千里《せんり》に、耕太は自分の心のなかにいるちずるの指の太さを測ってもらった。つまり、千里はわざわざ薬指にサイズをあわせてくれたのだった。 「ああ、耕太くん……」 「耕太、ありがと」  望もチョーカーを首につけていた。  細く白い首で、かわいくデフォルメされた狼《おおかみ》が、銀色の光を反射している。 「耕太、耕太……」  そっと望は耕太に身をよせ、頬《ほお》をぺろんと舐《な》めた。 「あー!」  負けじとちずるも飛びつく。ぺろぺろぺろん。 「また、不純な異性交遊を……!」  きゃいきゃいといつものようにくんずほぐれつしている耕太たちに、職員室から帰ってきたあかねは、眼鏡の位置をくいくい直しつつ、足早に詰めよった。 「ほれ」  そこにたゆらは剥《む》きだしで指輪をほうる。  うまく手のひらで受けとめるあかね。 「これは……?」  あかねは複雑な飾りの入った銀の指輪を、眼《め》を丸くして見つめた。 「義理チョコのお返しだよ」  たゆらはあえて「義理チョコ」を強調した。 「べつにそんな高いもんじゃない……銀メッキだしな」  純銀製の指輪を、あかねは「ふうん」とひっくり返して、裏から表から眺める。やがて、左手の中指にはめた。 「とてもそんな安いものには見えない——うん、ありがとうね、源《みなもと》。素直にもらっておくわ」  にこりと笑った。  たゆらは指輪のはまった中指を見つめ——薬指にはめたちずるをちらと見て、ふう、と息をはく。 「ま、いまはその指だよな……」 「え?」  いいや、なんでもないと手を振った。  まあいいさ、と胸のなかでつぶやく。いまは中指でも、いずれは——。 「あ、朝比奈《あさひな》さん」  耕太がやってきた。ちずると望《のぞむ》に両の頬《ほお》をすりすりされながら。  きっ、と顔をけわしくさせたあかねに、袋を手渡す。 「これ、バレンタインのときのお返しです」  エロス禁止、びしー! とやりかけていたあかねは、眼鏡の位置を直そうとフレームの端をつまんだままで、固まる。 「あ、ありがとう、小山田くん」 「——あと、これも」  ま、クッキーぐらいはしかたねえやな、と苦い顔をしていたたゆらは、新たな袋の登場に、なぬ? と眼《め》を剥《む》く。 「これは……」  なかには銀の髪飾りが入っていた。 「いつも、いろいろとお世話になってますから……」 「……あ、ありがと」  あかねはほんのりと頬を染めた。  大切そうに、元の黒い袋にしまう。 「ちょっと待てーい!」  たゆら、我慢の限界であった。  耕太の胸元を引っつかむ。 「てめーはおれのいったことが、なんにも、なにひとつ、かけらですらわかってねー!」 「え? ええ? だ、だって、似合うと思って」  ぶん、とたゆらは耕太をほうって、あかねに向き直る。 「なぜにその髪飾りは、すぐにつけない! なぜに大切そうにしまう! お、おれの指輪のように、なぜあっさりと身につけないんだー!」 「な、なんなの源《みなもと》。だって、髪飾りをつけるには、鏡を見ながらじゃないと」 「うるへーうるへーうるへー! 助けてフォックス仮面ー! ここに偽善者どもがいますー!」  たゆらの叫びは、教室中に響き渡るのであった。ひーん。 むすび 卒業式とはいうけれど  あーおーげーばー、とおーとーしー、  わーがー、しーのー、おーんー……。  ピアノの伴奏に乗せて、三年生による『仰げば尊し』が、体育館のなかに響き渡っている。卒業式の定番曲ではあったが、それを聴く耕太《こうた》は、胸のなかにじんわりと染みるものを感じていた。  ぐす、と鼻をすする。 「——なに泣いてんだ」  横からたゆらが茶化してくる。本来、生徒は出席番号順に、男女わかれて、横一列に席に座る。出席番号は五十音順で、小山田《おやまだ》耕太と源《みなもと》たゆらではバラバラなのだが、なぜかたゆらは耕太のとなりにいた。 「ダメだよ、たゆらくん、私語は……。おこられちゃうよ」  鼻をすすりながらの耕太の注意に、たゆらはあくびで答えた。  いまたゆらにいうことをきかせられる少女、あかねは、クラスの委員長で生徒会のメンバーなため、体育館前方の、教師たちの横の席にいた。 「まったくもってつまんねえ……卒業式なんか、バカ正直にでるんじゃなかったよ」 「また、たゆらくんはそんなこと……」 「ほれ、ちずる見てみろ」  くいくいとあご先で、斜め前の席を示す。  体育館には、ずらりと席が並べられていた。うち、一年生は後ろ、二年生は真ん中で、主役である三年生は前に座っている。たゆらが示した斜め前方、二年生の女生徒の席では、腰までの豊かな髪を持つ女性——いまは三年生が歌っているので、一年生、二年生は起立して聴いている——が、思いっきりあくびをしていた。はむはむ、とあくびをかみ殺す。 「……ちずるさん」  さすがにあくびをする際、たゆらと違って口元に手を当ててはいたが、たしかにあくびをしていた。すごくつまらなそうだった。耕太は遠くを見るような目つきになる。 「かと思えば、ほれ、そっち」  たゆらはこんどは、二年生の男子の席を指さした。 「わ」  指先の向こうでは、髪の毛をつんつんと立たせた男子生徒——桐山《きりやま》が、えぐえぐと泣きじゃくっている。頬《ほお》を流れる涙をぬぐおうともせず、歌う三年生を見つめ続けていた。 「ま、しかたねえけど……な」  桐山の視線の先には、席ふたつぶんを占領した大男の背がある。  学校の番長、そして学校の妖怪《ようかい》たちの長、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》だ。  彼には耕太もいろいろと世話になった。  かつては闘ったこともあったが、それもいまとなってはいい思い出だ。  ものすごく強いひとだった。  そして、ものすごく大きなひとだった。それは身体の大きさだけではなく——たしかに立派な体格だが、それだけじゃない、いわゆる心の、器の大きさを耕太は感じていた。  そんな熊田《くまだ》流星《りゅうせい》も、いよいよ卒業する。  耕太の胸に、こみあげてくるものがあった。ぎゅっと目元に力をこめ、我慢する。 「またかよ……おまえはチワワか」  たゆらのからかいに、耕太は鼻をすすって答えた。  いまー、こそー、わーかーれーめー……、  いざー、さーらーぁーばー。  歌が、終わった。  卒業式が終わり、生徒たちはみな、外にでていた。  校庭の桜は、卒業生の旅立ちを祝うように、その薄桃色の花を咲かせている。花びらが、風に乗って舞った。  玄関から校門へといたる道を、卒業証書の入った筒を持った生徒たちが、ぞろぞろと歩いている。解放されたような、すっきりした表情を浮かべるもの。感極まって泣き、それをなぐさめているうちにもらい泣きするもの。このあとでぱっと騒ぐつもりなのか、連れだって足早に帰るもの、さまざまだった。  そして、校門では——。  えぐっ。ひぐっ。はぐ……ずすすっ。  ぐずぐずと、桐山《きりやま》が泣きじゃくっていた。 「き、桐山くん……」  となりの澪《みお》もすっかり眼《め》をうるませていた。  それを見ている耕太はもちろん、ちずるも、そしてたゆらも、からかおうとはしない。黙って見守っていた。 「桐山よ……泣くでない」  校門の前には、熊田がいた。 「そんなことでどうする。これからはおぬしが、長となって率いてゆかねばならんのだぞ」 「ぐ、ぐまださん……お、おれ、おれ……」  桐山、桐山と、熊田のまわりにいた卒業生たちが声をかける。男も女も、まじめそうなのもそうでなさそうなのも混ざった彼らは、おそらくは熊田や桐山とおなじ、妖怪《ようかい》なのだろう。耕太は気配を探って確認することもできたが、止《や》めた。  なぐさめられ、桐山はさらに涙の量を増やす。 「桐山《きりやま》ぁ……泣くなよ。笑顔で熊田《くまだ》さん、見送ろうゼー?」  背丈の小さな男——たしか天野《あまの》といった——が声をかけるも、効果がない。どうやら彼は桐山やちずるとおなじく、二年生のようだ。 「けっ、なっさけねーの」  吐き捨てるようにいったのは、たゆらだ。 「それで番長になんかなれるのかよ。いまからでも遅くねえから、ちずるにまかせたら?」  ぴくん、と桐山の肩が、片方だけ跳ねる。 「なにいってんのよ、たゆら。そんなめんどくさそうなのわたしはイヤよ? だいいち、耕太くんとの新婚生活に忙しくて、そんな余裕はないってば」  ぴくぴくん、と桐山の両肩が跳ねた。 「じゃあ耕太、おまえやれよ」  え? と答えた耕太に、たゆらがぱちぱちとウィンクしてくる。  ……あ、なるほど。 「そ、そうだね。じゃあ、ぼくが——」 「おまえらふざける、コロス! 熊田さんのつぎ、おれ!」  涙を振り払い、桐山が耕太たちに向き直った。  にやりと笑ったたゆらに、ぐいと顔面を突きつける。鼻息を荒くしていた。 「おまえ、まったくセンパイへの口のききかた、なってない!」 「つうか長だっつうんなら、もっと後輩にやさしくしてくんねえっスか」  顔を突きつけ返すたゆらに、桐山の鼻息はさらに荒くなった。  ふふ、と熊田が笑う。 「それでいい、それでいいのだ、桐山。それでな……」  は、と我に返る桐山。熊田のほうを向いた。 「く、熊田さん、おれ——」  じんわりと瞳《ひとみ》がにじむも、ぶるんぶるんと首を横に振った。 「おれ、がんばる! がんばって、番長になる!」  うむ、うむ、と熊田はうなずく。 「あとはまかせたぞ、桐山。そして——小山田も、な」 「ぼ、ぼくも……ですか?」  笑みのかたちに細めた右|眼《め》で、じっと耕太を見つめてくる。  耕太はうなずいた。 「……わかりました」  笑顔のまま、熊田は校門の外に一歩踏みだし——。 「では、みなもの、さらば!」  大きな、グローブのような手を、高々とあげた。  そのまま振り返りもせず、大きな大きな背中は、遠ざかっていった。 むすびのむすび 入学式というけれど  もうぼくも、二年生かぁ。  耕太《こうた》は、体育館へと向かう廊下で、しみじみと思った。  薫風《くんぷう》高校では、始業式を終えたのち、入学式が始まる。始業式のあと、いったん目新しい教室——べつに一年生のときと作りは変わっていないのに、階が違うだけでも新鮮だった——に戻り、耕太たち新二年生はしばらく待機していた。  入学式の準備ができたので、いまこうして移動しているところだった。  いっせいに移動しているためにぎゅうぎゅう詰めの廊下をゆっくりと歩きながら、いろいろあったなあ、と耕太は転校してからの出来事を思いだす。  転校初日に、美人のセンパイに押し倒され——。  キスされ脱がされひとつになって——。  そのセンパイと、銀髪の少女と一緒にお風呂《ふろ》に入り——。  センパイのお尻《しり》をぺんぺんし——。  あまえんぼさんと称してちちまくらし——。  センパイと銀髪の少女とひとつおなじ布団で裸で抱きあい——。  温泉の宴会ではセンパイおっぱいちゅうちゅうぱいぱい——。 「う」  ろ、ろ、ろくな思い出がない!  耕太はめまいがする思いだった。あとは、数回、殺されかけたぐらいなもので……冷静になって振り返ってみると、自分の高校生活はじつにエロス&バイオレンスに彩られていたのだと、耕太は思い知った。 「……ぼくって、ぼくの青春って」 「おい耕太。なーに落ちこんでんだ? 新学期早々」 「ああ……たゆらくん……」  耕太はどんよりとたゆらを見あげた。うお、とたゆらが身をそらす。 「な、なんなんだよ、そのツラは」 「いや……ぼくってホント、ダメなやつだよね……」 「よくはわからねーが……まあ、とりあえず入学式がだりい、ってのは同意するぜ。なあ、いまからでも遅くねえ、フケねーか?」  いたずらっぽく、たゆらは口の端をにやりと曲げた。  その顔が、真横に引っぱられる。 「いた、いた、いた」 「なにをいってるのよ、源《みなもと》!」  あかねがたゆらの耳たぶをつまんで、引っぱっていた。  眼鏡の位置をくいっと直す。 「もう、二年生になっても成長しないんだから!」 「あ、朝比奈《あさひな》、おまえ、先に体育館に入ってたんじゃねーのかよ? 生徒会なんだろ?」 「生徒会のみんながみんな、仕事があるわけじゃないのよ。今回のわたしの仕事は、入学式の準備をするので終わりなの。それともなに? わたしがいるとなにかお困り?」 「そ、そんなことは……ねーよぉ?」  ふーん、とあかねは耳たぶを引っぱる。痛い痛いとたゆらは涙目になった。  思わず笑みを浮かべてしまった耕太の後ろには、銀髪の少女、望《のぞむ》がいる。  静かに、耕太の背中によりそっていた。  その首には、耕太がプレゼントした銀のチョーカーが光っている。 「あー、小山田《おやまだ》くんだー。はーい、犹守《えぞもり》さーん」  声に振りむくと、そばかすを浮かべた、短髪の——ベリーショートといってもいいぐらい短い髪の少女が、手を振っていた。  その横には、対象的に白い肌で、長い髪を真ん中分けにした少女がいる。 「ユッキー、彼に触れるとニンシンするわよ。犹守さんも、考え直したほうがいいわよ」  わー、こわーい、と少女たちは混みあった廊下をぐいぐいと前にゆく。  望を見ると、彼女らに向かって、小さくではあったが、手を振り返していた。耕太の視線に気づいて、ぽつりとつぶやく。 「……トモダチ、だから」 「へえ……」  そんな多少の変化はあれど、まあいつもの光景だ。  普段と変わらない……だけど、やはり耕太は二年生だった。ふう、とひと息はいて、耕太は前を見る。新入生を出迎える体育館の入り口は、すぐそこに見えた。  入学式。  耕太は口をあんぐりとさせていた。  そうせざるをえなかった。体育館に先に入り、新入生を待つ。そうして、やってきた一年生の姿を見たとたん。  ぽっかーん、だ。  開いた口がふさがらないとはまさにこのことだった。  初々しさを感じさせる生徒たちのなかに、ひとり、やたらと大きな体格で、老けた顔の持ち主がいた。ごつごつした岩のような身体と顔で、左|眼《め》には十字の傷を持っていた。  その傷は、まるで星のように——。  まるで、流星のように——。 「く、く、く……」 「「熊田《くまだ》さん!」」  耕太の声を、たゆら、ちずる、桐山《きりやま》、澪《みお》、その他いろんなところからの声が引き継いだ。 「むふ?」  名指しされた当人は、こちらを見て、ただ笑う。胸のワッペンは、まぎれもなく、一年生を示していた。 「な、な、な……なぜ!」  だれかが、当然の疑問を発した。耕太だって訊《き》きたい。みんな訊きたい。  体育館のざわめきが増した。 「——おまえら、静かにせんか!」  一瞬で元の静寂を取り戻す。  怒声を発したのは、白髪《しらが》混じりの髪をオールバックにした教師、八束《やつか》だった。  なんで、どうして、卒業したはずの熊田さんが、ここに?  耕太のみならず、ほとんどの生徒が感じたであろう疑問をそのままに、入学式は始まった。そのせいか、今回、あくびをするものはひとりとしていなかった。 「どうしてですか、熊田さん!」  入学式が終わりしだい、耕太たちは熊田にしか見えない新入生を、三階隅の、いつも学校の妖怪《ようかい》たちがたまり場にしている教室につれこんだ。みなで囲む。 「なんだって、一年生になんて……」  全員の疑問に、身体の大きな一年生は、ぬふ? と笑った。 「おぬしら……だれかと勘違いしてはおらんかね? わたしは、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》などという男は、知らんぞ?」  と、こちらは熊田『流星』なんてひとこともいっていないのに、いった。 「——じゃあ熊公。あなたの名前はなんなのよ」  ちずるがつっこむ。 「わたしか? わたしの名は……そうだな……」  熊田によく似た男は、熊田……熊田……とぶつぶつつぶやく。 「うむ……熊田……りゅ……彗星《すいせい》、ということで」 「と、いうことでって……あなたねえ」  熊田流……彗星は、斜め後ろでだらだらと汗をかいている男と向きあった。  桐山である。  彼の片方の眉《まゆ》は山なりに、もう片方は谷のかたちに曲がり、目元はひくひく、口はぱくぱくと、喜んでいるんだか悲しんでいるんだか、複雑きわまりない顔つきになっていた。 「これはこれは……あなたがこの学校の妖怪たちの長である、桐山さんですな」  熊田彗星が、桐山に向かって深々と頭をさげる。 「これから、よろしくお願いいたします」  桐山《きりやま》の顔は、青くなったり白くなったり赤くなったりした。 「え、う、お、あ……」  ぐりん、と眼《め》が上に回り、白目を剥《む》いた。  その場にぶったおれる。 「桐山くーん!」  澪《みお》の叫びがあがった。 「なーに考えてんのよ、あなたは……」  口をへの字にしたちずるに、熊田《くまだ》はがっはっは、と豪快に笑うだけ。もう耕太も笑うしかなかった。  教室に、「桐山くーん!」と、また澪の声があがった。  そんな、インパクトのありすぎる新入生のせいで、耕太もちずるも気づかなかった。  新入生のなかに、耕太を強く見つめる視線が、いくつかあったことに……。      (おわり) 税込六〇九円の重み (あとがき)  六〇九円って、重いよなあ、そう感じるわけです。  読者の皆さまがたには、いきなりなにごとかと思われるでしょうが、まあちょっと聞いてくださいよ、そこのステキなボーイズ&わずかなガールズさん。  わたしはオトナなので、えっちな本をよく買います。  これはわたしがえっちだからではありません。資料なのです。資料なので、しかたなく買い求めているのです。しかたなく読んでいるのです。血のしたたるような努力というやつです。ほら、あまりの辛《つら》さに、口元がゆるんでしまっている。じゅるじゅる。  えー、で、そのえっちな本ですが、まあ、六〇〇円ぐらいします。  そして、いまあなたが手にとっているこの本——「かのこん」は、税込六〇九円です。  さて……。  「かのこん」シリーズは、わたしがいつも読んでいるえっちな本ぐらいには、あなたを楽しませているのでしょうか? いや、べつに「かのこん」がえっちな本だなんていってませんよ? な、なにをいっているんですか、「かのこん」は純愛小説ですよ!  つまりなにがいいたいかといえば。  六〇九円ってけっこう高いよなって思うんです。週刊漫画だったら、ちょっとお金を足せば三週分、買える。一〇五円のお菓子は五個買って、お釣りまででる。もちろん、六〇〇円ぐらいのおっぽいいっぱい夢いっぱいな本——わたしにとってはあくまで資料ですが——も、買える。  そういった、六〇九円で買えるものとおなじくらいの、いや、むしろそれ以上の喜びを、読者には味わってもらわなきゃいけないなあ、そう思ったんスよ!  とりあえず半分の三〇五円——人によっては、え? 六〇九円? の喜びは、地上に舞い降りた最後の絵師、狐印《こいん》さんのヘブンリーイラストによって与えられているでしょう。いつもいつも、やわらかくも張りのある美しいおっぱ……えふんえふん、絵を描いていただいてありがとうございます。  残りの三〇四円——それはわたしの仕事だ。  いや、耕太《こうた》くんでありちずるさんだ。彼ら、彼女らにがんばってもらいます。まあ、斜め上にがんばるかもしれませんが、そのあたりは温かい目で見守ってくだされば……ね? 追伸 前回のあとがきで『エロス度アップしないように』と怒られたと書きましたら、『いいや、もっとエロス度アップ希望』というアンケートはがきをたくさんいただきました。もう、みんな好きなんだから! 結果は……内容を見てのお楽しみです。 平成十八年○月って、五十日くらいに伸ばせないだろうか、法律で  西野かつみ 発行 2006年7月31日(初版第一刷発行) 2008/06/10 作成